神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。
ローマ8:28
多くのクリスチャンが、勇気と励ましを貰っている御言葉。
私たちは生きて行く中で、沢山の問題や試練にぶち当たる時があります。
それらの問題は何処から来るのか? 主から来る場合もありますが、多くの場合はそうではない場合も多いと思います。人間の罪やサタンの攻撃、時代の流れに巻き込まれることも多いです。
しかし、自分にぶち当たる問題や試練・・・ 主からのものでなかったとしても、主が容認されたのです。すべてのものの上に居られる主が、その問題や試練が私に起こることを容認されたのです。
上記の御言葉で一番よく引用されるのは、創世記に出てくる「ヨセフ」の話です。
ヨセフは兄たちの妬みにより奴隷として売られエジプトまで連れて行かれます。無実の罪で牢獄に入れられたり、、22年間も苦労の連続でした。落ちるところまで落ちた人です。
時が経ち、ヨセフを妬み奴隷として売り払った兄弟たちに再会します。兄たちはヨセフに仕返しをされるかと恐れました。
ヨセフは何と言いましたか?
「恐れることはありません。どうして私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなされました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」(創世記50:15-21)と、兄弟を慰め優しく語りかけたヨセフ。
ヨセフの人格が素晴らしすぎ、懐が大きい人物だったからでしょうか?
ヨセフが奴隷として売られてから22年間。ヨセフは投げやりな態度をとりませんでした。自信を無くしたり、劣等感を持ったりしませんでした。もう自分の人生どうにでもなれ!と、あきらめたりしませんでした。神様を恨んだり、疑ったりなどしませんでした。
ヨセフはどの様な状況でも、主が共に居て下さっているのを感じていたのです。自分が主に愛されていると感じる事が出来ていたのです。
自分の状況だどうであれ、十分に愛されていたことを感じる事ができたから・・・
「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。」(詩篇37:7-8)
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)と悪に勝利する道を教えています。
ヨセフもこの様な考えを、持つことが出来たのではないでしょうか? だからこそ復讐されることを怯えている兄たちに「どうして私が神の代わりでしょうか。」と言う言葉が出たのではないでしょうか?
「主はすべてのことを働かせて益として下さる」これは、本当でしょうか?
いつまでたっても、苦しみの沼から這い出せない人も居るのではないでしょうか?
「全てを益に」を体験できるか、出来ないかは私たち次第だと思います。
これは二択です。
もし私が、問題や試練に対して、主を疑い反抗心を持って問題に接するならば、問題や試練は私にとって「つまずきの石」となります。
体験できる方法は、どんな状況であっても、主を信じ、主に祈り、主に感謝するという選択肢です。
後者を選択することによって「全てを益に」を体験できるのです。
これは、何度も何度も私たちが、日々選択しないといけないのです。
主は、どの様な問題からも益を生み出すことが出来るのです。
人生には、自分の計画通りでないこともあります。
そのようなとき、自分の目指していたことは違うと言って、受け入れたくないと思うかも知れません。
しかし、自分の思っていない事態になってもそれを受け入れ、主を信じ続け、祈り続け、感謝する者には、「全てを益に」を体験することが出来るのです。
大事なことは、与えられたものを受け入れ、主を信頼し感謝をもって歩むと言うことです。
理解できないようなことがあっても、人の計る悪さえも、益としてくだる主を信頼し、
今日も一日喜びと感謝を持って主と共に歩みましょう!