私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、
私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。
しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
箴言73:21-24
昔、読んだ本の中にこんな話がありました。
読んだ時に、「ずっと記憶しておく話」と思いました。
この実話を書かれた著者さんが電車に乗っていました。電車の中は少し混んでいる状態で座席は埋まっており立っている人が何人かいたそうです。
ある駅に着いて、老人の方が一人入ってきました。その人は若い青年の前に立ちました。
若い青年はチラッと顔を上げましたが、座席を譲るどころか、大きく開いた足をすぼめる事さえしませんでした。
老人は、段々イライラしていました。ついに大きな声で青年に対し声を上げました。
「年寄りが電車に乗ってきて、席を譲らないうえ、足を開いたままにするとはどういう事だ⁉」と言いました。同じ電車に乗っていた人たちは、その声を耳にし、一気に青年が注目されました。
青年はそんな状態であっても、顔を上げることなく、携帯を覗いています。
同じ電車の乗客も少しざわつきました。青年に対して「非常識」だという雰囲気になりました。
次の駅は、著者が下車する駅です。著者が立ち上がると、その青年もスクッと立ち上がりました。
そして、青年は足を引きずって電車を降りたのです。足を引きずる姿を見た乗客も老人もビックリし、車内はざわつきました。
青年は電車を降り、著者も電車を降りました。
電車のドアが閉まり、電車は次の駅へと出発しました。
その時・・・!
その青年は、駆け足で階段を上って行ったそうです。
こんな話でした。
青年は足が悪くなかったのです。悪いフリをしただけです。足が悪いというのは、青年のショーでした。
著者が降りた後の、電車の中を想像してみて下さい。
多分、乗客たちはざわついて、「青年は足が悪かったのか」「青年は傷ついただろうな」「おじいさん失敗してしまったな」などと考えたと思います。
老人も、その電車の中で後悔したのではないでしょうか? 自分は何も知らないのに、見たままで物事を判断し、大声で文句を言ったことを・・・青年を傷つけてしまったことを。
電車を降りたのは、青年と著者だけでした。
電車の中に多くの人が乗っていました。電車の中の乗客は「自分は一部始終を見た」と思っていると思います。初めに青年が乗っている所に、老人が乗ってきて、青年は席を代わらず足を開いたままであり、老人はそんな青年に腹を立て文句を言ったけど、実は青年は足が悪かった・・・と。
その場にいて、初めから全部を見た。一部始終を見たと思っていても、この話の中で本当に真実を見たのは著者1人です。
いえ、著者も真実を見ていない可能性もあります。
著者は、過ぎ去った電車の中でどの様に話が展開したかは分からないからです。
もしかしたら、過ぎ去った電車の乗客が、老人に対して「失敗しましたね。言い過ぎましたね」とつぶやいたかもしれません。沢山の人に責められていたかもしれません。そんな中で、もしかしたら、過ぎ去った電車の中に、青年の知り合いがいて、「いやいや、あの青年は足は悪くない!あれはショーだ!」と、足が悪くないという事実を言ったかもしれません。
私たちが真実を見抜ける、見通すのは不可能だと言う話です。
「全てを見た」「全部知っている」と思ったとしても、それは自分が勝手に「全てを見た」と思っているだけなのです。
人間が、真実を見ることは出来ないんだなと思った話でした。
だから、自分は人に対して「あなたが悪い」「あなたが間違っている」とは判断できないのです。
自分の人生で起こる理不尽な出来事。経験することが多いと思います。
理不尽だと思っているだけの可能性があります。自分はすべてを理解できないから。
全てを見極めることが出来ない存在だから。
理不尽な出来事。「神様、どうしてですか??」と言いたくなるような出来事。
神様に任せましょう。
今、それを自分の頭で理解できなくても、私たちがこの世を去って主に出会った時、全ての疑問の答えを主から得ることが出来ると思います。自分が想像も出来なかった答えを。どうして自分が真実を見れなかったのか、その時に分かると思います。
電車の乗っていた乗客たちの中で、実はあの青年は足が悪くなく単なる青年のショーであったと誰が想像できたでしょうか?
主は、時がくれば、私が完璧に納得できる答えを教えてもらえると思っています。ただ、今はそれを知る時ではないだけで・・・
だから、主を信じ、理不尽な事、傷ついたこと、「どうして?」と聞きたくなることなど・・・主にお任せしましょう。