わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。
エゼキエル34:26
今日、聖書を読んで
「季節にかなった雨」「祝福の雨」という言葉から母親を思い出しました。
私の母親は2011年に亡くなりました。
風邪もひかないほど健康体でしたが、交通事故に遭いました。
体は無傷でしたが頭部だけ強打し、4か月の病棟生活の後、天に召されました。
母親を思うと今でも涙が流れます。
母親が若い時に両親を亡くし、寂しい思いをしてるなか、公園で日曜学校に誘われて
教会へ通うようになったそうです。
ノンクリスチャンの父親と結婚し、義母と同居でした。
子ども4人に恵まれ、自営業という事もあり、日々目まぐるしく生活していました。
人生で数えるほどしかない同窓会にも、申し訳なさそうに出かけていました。
日曜日の教会も、家庭の様子を伺い、父親に怒られながら何とか礼拝を守ってきました。
母親についての証は2022/01/06のブログに記載⇩
友達と気楽に会ったり、外食をしたり、旅行などとは程遠い生活でした。
母の人生を思い浮かべると涙がでます。
亡くなった当初は、自分でも気付かないうちに涙を流していました。
何をしても母が思い出され、胸が苦しくなり、母の元に行きたいとも、よく思いました。
天に召されて10年以上の月日が経ちます。
それでも何故涙が流れるのでしょうか?
私はよく出来た良い子どもではありません。(だからと言って悪かったという訳ではないです。)
親が満足し、自慢できる子どもではなかったです。
あの時、あんなこと言わなかったら良かった・・・とか
あの時、もっと手伝えば良かった・・・とか、もっとこうすれば良かったなど色々思います。
でも私の母は、絶対に「そんなこと一つも気にしてないよ」と言ってくれると思います。
「私の方こそあの時、もっとこうすれば良かったって思うことが沢山あるよ。ごめんね。」
って言ってくれると思います。
だから、もっと〇〇すれば良かったという考えで思い悩むのは辞めようと思っていますが、
涙が出ます。
私はいつまで涙を流すのでしょうか・・・
でもある時、気付きました。
世の中には親が亡くなっても涙が出ない人もいます。
私の知り合いに「親のお葬式が私の独立記念日だ」という人がいました。
毒親の元で辛く苦しい生活から解放されたという意味です。
ある人は親が亡くなるのを待つ人もいるでしょう。お葬式に参列しない人もいるでしょう。
そう思ったら、月日が経っても恋しく感じ、涙が流れるなんて!
私にとって、世界で一番尊敬するクリスチャンは母親です。
一番尊敬する人から生まれ、育てられ、聖書を伝えてもらい、子どものころから家庭礼拝を
出来てきたことは、この私にとって、この上ない祝福です。
今でも母が恋しく涙がでるのは「主の祝福」なんです。
涙は、私にとって「主が最上の祝福を私に下さったという証拠」なのです。
主の祝福 = HAPPY~~!!
であり、解放であり平安であり心躍るものでもありますが、
祝福で涙することもあるという事です。
私は母を思い出し涙するたびに「祝福の証拠」を感じることが出来るなんて・・・
本当に幸せだなと思います。
今は、母を思い出し涙が流れる時、「悲しい」という思いだけでなく
「この涙は主の祝福」と祝福を感じることが出来ます。