いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
ピリピ2:16
私の亡くなった母は、私が小さい時からよくこのように祈っていたのを覚えています。
「キリストの香りを放つ者となれますように…」
子どものころは「キリストの香りを放つ」ってなんだろう?と思っていました。
私は自営業の家で育ちました。姑も同居で子どもも多く、母は常に忙しい人でした。
私が覚えてる母の姿は、毎日毎日沢山の食事の用意、後片付け、山のような洗濯。仕事の手伝い。
常にカセットテープで片耳だけイヤホンをしてメッセージを聞きながら家事をこなしていました。
教会から沢山の主日礼拝のメッセージテープを借りてきて、
時間を惜しむように常にメッセージと一日を共に過ごしていました。
自転車でスーパーへ行くときは、賛美を口ずさみ、時折泣きながら賛美を歌っていました。
母は、厳格で亭主関白な父親と姑に気兼ねしながら、妻として嫁として母親として生活しました。
父親は未信者だったので、母は堂々と教会に通える状態ではなく、隠れて教会に通っていました。
礼拝5分前に教会へ入り、心を神様に向けて礼拝の準備をする・・・というようなことは
全くできず。メッセージの時間に合わせ、走って教会へ行き、メッセージが終わると同時に
慌てて家に帰る・・・帰ると家を留守にしていたことに対して父親に怒られる・・・
こんな状態で礼拝を守っていました。
ですので母親は、私たち子どもを教会に通わすことはできませんでした。
父親が配達に出かけると、母は決まって慌てた様子で子どもたちを召集し、
聖書を開いてイエス様の話をしました。
賛美も教えてもらい「成長」という子どもの聖書の学びも母がしてくれました。
でも、子どもの成長と共に、この家庭礼拝も上の子どもから一人減り、一人減り・・・
一番下の妹が中学生になった時には、子どもは誰も家庭礼拝に参加しなくなりました。
母は、一人で長い年月、家庭礼拝を守っていました。
母の聖書には、沢山の人の名前が書かれた紙が何枚も挟んでありました。
いつもその紙を見ながら、涙を流しながら一人づつ名前を読み祈っている姿を覚えています。
幼かった私はいつも、母の姿を不思議に思っていました。
「どうして母は、聖書を読んでは泣いて、祈っては泣いてを繰り返すんだろう」
母の祈りはきかれ、一番下の妹がまず救われました。次に私が救われました。
私は、父親に知られない方法で教会に毎週通うことができました。
また意外な方法で神学校へと導かれ、牧師と結婚しました。
妹もクリスチャンホームを持つことが出来ました。
結果的には(まだ途中経過ですが)、姑(私の祖母)は、晩年痴呆にかかっていましたが
「イエス様を信じる」と告白し、父親がいない時間帯は毎日、聖書を声に出して読んでいました。
父親も死を間近に、「母がいる天国へ行きたい」と言い、洗礼を受けてから天に召されました。
他の人から見たら、母親の信仰はどう見えたでしょうか?
礼拝の途中で来て、途中で帰る・・ 礼拝中にバタバタして
この人は何だろう?と思われていたかもしれません。
母親の聖書は、凄く読み込まれボロボロでした。
私は、今までこんなに読み込まれボロボロになった聖書を見たことがありません。
子どものころは「こんなにボロボロな聖書で恥ずかしい」と思っていました。
今、この聖書を見ると、涙が溢れてきます。
このボロボロな聖書が母親の姿のようにも見えます。
信仰を守る為、沢山の障害がある信仰生活でした。
沢山の涙を流した信仰生活でした。
人の為に祈り、人に仕える信仰生活でした。
普通の主婦よりも遥かに忙しい毎日を
カセットテープから聞こえるメッセージと共に一日一日を過ごす信仰生活でした。
私は自分の母を一番尊敬しています。
母のようなクリスチャンに、主に使える人になりたい。
私は、誰よりも主から大きな祝福を頂いていると思います。
こんなに素晴らしい信仰者の母から生まれるように計画して下さったのですから。
私の長男が中学2年生の時にこんなことを言いました。
「自分は凄く弱い人間。だから誰よりも神様と一番近い所で生きて行かないといけない。」
この小さな信仰告白を主は覚えていてくださり、今は神学校に在学しています。
私の母は有名人でもなく普通の主婦です。
時間の流れと共に母を記憶する人もいなくなるでしょう。
しかし、この無名な母が信仰を守らなかったら、
父親、姑、妹家族、私の家族、また長男へと信仰を繋ぐことは出来なかったと思います。
私にとって母は「無名な偉人」だと思っています。
母は自分の存在を通して、主を愛する、信仰を守る、主に使える、人に仕えるという事を
母の人生を通して私たちに教えてくれました。また祈りはきかれるんだと教えてくれました。
まさしく「キリストの香りを放つ者」として生涯を送れたと思います。