それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
いのちは食べ物より大切であり、からだは着物よりたいせつだからです。
烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことができますか。
ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。
これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えられて与えられます。
ルカ12:22-31
私たちは時折、思い悩み、ため息ばかりの日々を過ごすことが多い。
心が苦しくなったり、孤独や絶望を覚えることもある。
これはクリスチャンであっても、そうでなくても同じ経験をするし、
家が裕福であってもそうでなくても同じであり、有名人であっても一般人であっても同じである。
幸せを感じる瞬間と、絶望を感じる瞬間は、自分の人生でどちらが多いだろう・・・
これは、人によって違う。
自分の人生は「幸せな方」と考える人もいれば
自分の人生は「苦労が多く、辛いことが多い」と感じてる人がいる。
この差は何だろう。この世的に言うと「運」とか「持って生まれたもの」?
あるいは「ポジティブな人」?
聖書的に考えてみよう。
聖書的に考えると「信仰がある」か「信仰がない」かだと言えると思う。
聖書には「鳥」や「ゆりの花」「草」としてたとえの話が記されている。
どんなに悩み心配しても自分の命を少しでも延ばせないと書いてある。
「思い悩み苦しむ」とは一種の「不信仰」な状態と言える。
自分の人生の中心は誰か。
自分の人生を支配しているものは何か。
自分で自分の人生を握りしめていないだろうか?
思い悩むという行動は、私たちの人生において「不必要」であり、
神様との関係を遠ざけ、関係に溝を生じさせる行為に繋がる。
私たちが望む望まないに関係なく、主はいつも私たちと共にいて下さり、
前からも後ろからも私を囲こみ、御手を私の上に置き(詩139:5)
「大丈夫だ! 私はここにいる」とおっしゃって下さる方である。
何かに不安を感じたら、即座に主に今の状況と感情を伝えよう。
これは、「不安な時」だけでなく、「喜びを感じた時」も同じである。
自分の心が動いた時は、主に語りかけよう! 主に近づけるチャンスである!