しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
Ⅱコリント12:9
私はクリスチャンの方から、よく聞く言葉があります。
「もうどうする事もできない」
「もう方法がない」
今ある現状を克服する、解決する術がないという話です。
私たちは、何か困難に出合うと「限界」を感じます。
もう…ダメだ…と。
誰でも限界を感じるという経験をした事があると思います。
12年間、長血を患った女性。
沢山の医者に診てもらい、一向に良くなる兆しがなかったのです。
もう、癒される方法が彼女にはなかったのです。
もしかしたら、彼女を知る人たちも
彼女が癒される事を諦めていたかもしれません。
もう、どうする事もできない…と。
希望を持てなかった。
彼女の病は癒される方法はない限界な状態。
でも、それで彼女の人生は終わりではなかったのです。
彼女は主に出会い癒しを受けたのです。
という事は、
彼女や人々が感じていた「限界」は、
限界ではなかったのです。
彼女の人生は、感じていた限界が終わりではなかったのです。
彼女が感じていた限界は、癒しを受ける「過程」だったのです。
私たちは直ぐに、もうダメだ…と「限界」を感じます。
しかし本当は「限界」ではなく、
主の御業がなされる「過程」に過ぎないのです。
イエスさまが十字架で亡くなった時…
人々はどう思ったのでしょうか。
拷問を受け、手足に釘を打たれた時…
わき腹に槍を刺されたのを見た時、
弟子たちを始め、多くの人はどう思ったのでしょうか。
主は亡くなったと、
もうどうする事も出来ないと、
限界を感じたのではないでしょうか。
しかし、イエスさまの十字架の死は、
終わりではなく、限界でもなく、過程だったのです。
復活と救いの道を開く為の過程…
主の十字架の死は、
主の御業がなされる「過程」に過ぎないのです。
私たちは、直ぐに限界を感じてしまうのです。
もう方法がないと嘆くのです。
しかし、主の目にはそれは終わりでも限界でもなく
主が御業を行う過程に過ぎない。
私たちが自分の限界を感じる時、
それは主の御業の過程。
私たちは、目の前の現実を目にしながら
「もうダメだ…限界だ」と思ってしまう時、
私たちの限界から、主は働かれるのかもしれません…
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)