どうして状況が変わらないのか【Ⅰテサロニケ5:10】

2024年

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。

Ⅰテサロニケ5:10

あるクリスチャンの方が

「ずっと祈ってるんだけど、一向に状況が変わらないのよね…」と言いました。

祈ってるのに、何も起こらない。

何も解決しない。状況が変わらず、反対に悪くなることもあります。

どうしてなんだろう…と考えていました。

私たちは、目の前に問題が生じると、

「どうしてこのような事が…」とその理由を考えます。

人生の問題の一つひとつの意味を知る事が出来れば

良いのですが、それが分からない…

どうして… どうしてこんな事が…と立ち止まるのです。

主は、私たちの幸せを願っています。

だから私たちは「主は私たちに、良いものを下さる方ではないのか?」と

疑問に思うのです。

主が願う「私たちの幸せ」とは何か…?

残念ながら、

私たちが願う幸せと、主が考える幸せは違うのです…

私が考える「私たちの幸せ」とは、

困る事がなく裕福に生活ができ、

健康で、大きな問題なく、

穏やかに暮らせることが幸せだと思っています。

しかし主が「私たちに与えたいと思っている幸せ」は…

私たちが主と共に生きる事なのです。

主と共に生き、主を愛し、隣人を愛して生きる事。

これが人間に与えようと思っている幸せ。

私たちが考え、願っている事と、

主が考えている事に違いがあるのです。

人間にとって本当の幸せとは、

私たちが考える幸せではなく、

主が考える幸せだと思います。

だって…主が私たちを造られたから。

創造者が「主と共に生きる事」を幸せとされたからです。

では、どうすれば、それを私たちに教え伝える事が出来るだろうか…?

私たちが子どもに対して教えるように教えられるんだと思います。

私たちは幼い子どもの幸せや成長を願い、

子どもの思うまま、好き勝手にさせるような事はしません。

例えば、車が通る道で遊んでいれば注意をして辞めさせます。

子どもはその時、自分の自由にさせてくれないと思ったとしても、

大人は正しく教えようとします。

なぜならその子どもを愛しているからです。

その子どもの安全と幸せを願って教えるのです。

しかし、その子どもが教えを理解したら…どうでしょうか。

車が通る道路で遊ぶ事が危険である。

自分にとっても、運転者にとっても良くない。

という事を理解し、遊んではいけないという選択が出来るようになれば、

それ以上、大人はそのことについて、子どもに話しはしません。

簡単に言えば、その件については子どもがパスしたからです。

主も同じなのです。

私たちにとって嫌なことで気を揉むような事であっても、

目の前にある問題は、主からの語りかけ。

主が「私と共に生きよう」

「私をもっと信頼して欲しい!」

「私に求めなさい!」

「私と時間を共に過ごそう!」という

合図なのです。

その語りかけを私たちが悟り、受け止めれば…

主はそれ以上、私たちがその環境下にいる必要はないと考えるはずです。

という事は、

目の前にある問題から解放されるのです。

私は、自分を取り巻く問題が解決したり、

問題から解放を感じる時、

本やノートを、主がめくられたように感じます。

1つの課題を終えたかのように。

1つのミッションを終えたかのように。

主からのメッセージを受け取りパスする事が出来たのです。

「次のステージに行こう!」と言うように、

ページをめくられるように感じます。

今ある、目の前にある過ぎ去らない問題…

主の語りかけを悟る事が出来ていないからだと思います。

主のメッセージを受け止める事が出来れば、

もうそれ以上、主は私にその環境を与える必要がないのです。

という事は、

問題が生じた時、

「問題を解決して下さい!」

「助けて下さい!」

と祈るより

「主よ、あなたが今、私に教えようとしている事を、

私が悟る事が出来ますように!」と

祈る方が、早くページがめくられると思います…

しかし私は…

長く学校の問題に頭を悩ませています💦

なかなか、ページをめくられない主(笑)

私はまだまだ、主の思いを悟る事が出来ていません…💦

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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