これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」
ルカ8:50
ずっと主に祈ってることはありますか?
どうして良いのか分からず…
主により頼むしかない状態。
ずっと祈り求めているのに、事は進まず、
停止した状態のように感じ時。
私はこんな時、聖書の中の一人の人物を思い出します。
会堂管理者のヤイロです。
イエスさまに群衆が押し寄せる中、
ヤイロはイエスさまの前に跪き、
自分の家に来てください!と、‟しきりに” 頼んだのです。
自分の娘が死にそうな状態だと、、助けてほしいという懇願・・・
切羽詰まっていたのを感じます。
イエスさまはヤイロの願いを聞き入れ、
直ぐにヤイロの家を目指しました。
主がヤイロに心を向けた途端、
イエスさまは、長血を患った女性に心を停められ、
そして一刻を争う時間にも関わらず、
この女性に時間を使われたのです。
私がヤイロだったら、
「先生!申し訳ないですが、私には時間がありません!先を急いで下さい!!」
と訴えていると思います。
だって、長血を患っている女性は、
数時間後に癒しを、与えられてもいいはずです。
「2時間後に来なさい!」と言われても問題ないはず。
なんなら「明日来なさい」と言っても良いのです。
またイエスさまが、この女性と話をしてる最中に、
ヤイロの使いから、知らせを受けたのです。
「お嬢様は亡くなりました」って。
私なら、早くこの女性のと話を切り上げて、
私の問題をクローズアップして欲しくて堪らないのに…
自分には時間がない‼という事を叫ばず、
主張せず、待ったのに…
自分にとって、そんな絶望的な話を聞かされたら、
泣き崩れると思う。
「先生が急いでくれさえすれば!!」
「あなたが横入りしなければ! 私の娘は死ななかったはず!!」
泣き叫んで、自分の思いを訴えるハズ。
黙って主の「恐れることはない。ただ、黙って信じなさい」
なんて言葉が、
私の耳に入るだろうか…と思う。
ヤイロは、自分のピンチな時に
他人に自分の人生の邪魔をされても、
何もかも全てが終わったと感じても
主を待ったのです。
私たちは問題に襲われた時、
絶体絶命だと感じた時、
一刻も早い、主の助けを求めます。
そして「いつ」主が助けの御手を差しのべて下さるか…
と言うことが、最大の関心になるのです。
…主は、主が動かれるまで私たちが待つことを望まれている。
自分の目に、自分の状況がどう見えようと、
私たちの目が、自分を取り囲む問題ではなく、
主を見つめ、主を待ち望む、
そのようなものである事を望まれている。
私たちの目には、ヤイロの方が救急を要します。
まず先に助けないといけない人物。
まず先に御手を差し伸べる人物。
しかし、主の目にはヤイロの娘より
長血を患った女性の方が救急性があったんだと思います。
私たちは「主の御手がいつ動かれるのか」に
重きを置いてしまいます。
しかし、主のポイントは「いつ」ではない…
「主の時を待つもの」
今日も、主に祈りながら、
主の時を待とうと思います。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)