主に祈っても答えられない時【ルカ8:50】

2024年

これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」

ルカ8:50

ずっと主に祈ってることはありますか?

どうして良いのか分からず…

主により頼むしかない状態。

ずっと祈り求めているのに、事は進まず、

停止した状態のように感じ時。

私はこんな時、聖書の中の一人の人物を思い出します。

会堂管理者のヤイロです。

イエスさまに群衆が押し寄せる中、

ヤイロはイエスさまの前に跪き、

自分の家に来てください!と、‟しきりに” 頼んだのです。

自分の娘が死にそうな状態だと、、助けてほしいという懇願・・・

切羽詰まっていたのを感じます。

イエスさまはヤイロの願いを聞き入れ、

直ぐにヤイロの家を目指しました。

主がヤイロに心を向けた途端、

イエスさまは、長血を患った女性に心を停められ、

そして一刻を争う時間にも関わらず、

この女性に時間を使われたのです。

私がヤイロだったら、

「先生!申し訳ないですが、私には時間がありません!先を急いで下さい!!」

と訴えていると思います。

だって、長血を患っている女性は、

数時間後に癒しを、与えられてもいいはずです。

「2時間後に来なさい!」と言われても問題ないはず。

なんなら「明日来なさい」と言っても良いのです。

またイエスさまが、この女性と話をしてる最中に、

ヤイロの使いから、知らせを受けたのです。

「お嬢様は亡くなりました」って。

私なら、早くこの女性のと話を切り上げて、

私の問題をクローズアップして欲しくて堪らないのに…

自分には時間がない‼という事を叫ばず、

主張せず、待ったのに…

自分にとって、そんな絶望的な話を聞かされたら、

泣き崩れると思う。

「先生が急いでくれさえすれば!!」

「あなたが横入りしなければ! 私の娘は死ななかったはず!!」

泣き叫んで、自分の思いを訴えるハズ。

黙って主の「恐れることはない。ただ、黙って信じなさい」

なんて言葉が、

私の耳に入るだろうか…と思う。

ヤイロは、自分のピンチな時に

他人に自分の人生の邪魔をされても、

何もかも全てが終わったと感じても

主を待ったのです。

私たちは問題に襲われた時、

絶体絶命だと感じた時、

一刻も早い、主の助けを求めます。

そして「いつ」主が助けの御手を差しのべて下さるか…

と言うことが、最大の関心になるのです。

…主は、主が動かれるまで私たちが待つことを望まれている。

自分の目に、自分の状況がどう見えようと、

私たちの目が、自分を取り囲む問題ではなく、

主を見つめ、主を待ち望む、

そのようなものである事を望まれている。

私たちの目には、ヤイロの方が救急を要します。

まず先に助けないといけない人物。

まず先に御手を差し伸べる人物。

しかし、主の目にはヤイロの娘より

長血を患った女性の方が救急性があったんだと思います。

私たちは「主の御手がいつ動かれるのか」に

重きを置いてしまいます。

しかし、主のポイントは「いつ」ではない…

「主の時を待つもの」

今日も、主に祈りながら、

主の時を待とうと思います。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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