主の答えを「待つ」ということ【マタイ24:36】

2024年

その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

マタイ24:36

病院で仕事をしている時、

必ず時間を守らないといけない事があります。

例えば、食事の時間には配膳車を運ばないといけないのです。

他病棟の配膳車も運んでいます。

私が他病棟の配膳車を運ぶ時間は数分のズレもなく決まっています。

私が他病棟に運び終わり、自分の病棟に戻る時間を狙って、

同僚が私の病棟に運ばないといけない点滴を

私に渡しに来ます。

同僚の時間と手間の節約です。

互いにその場所を通る時間を知っているので

スムーズに1つの仕事を終えるのです。

いつもタイミングよく同僚が現われるのに、

前回は来ませんでした。

変だな…と思い少し待って同僚の病棟の方へ行きました。

すると、同僚が体調を崩し急遽休みを取ったようです。

誰かが代わりに点滴を私の病棟に運ばないといけないのですが、

私が決まった時間に近くを通るという事を知らないので、

手間と時間をかけて、違う人が違うタイミングで持って来てくれました。

このタイミングを知っていたらもっと便利で

スムーズなのに…と思いました。

私たちも、主のタイミングを知っていたらどうだろう…

と思ったのです。

主が答えをくれるタイミング。

主の計画。主のスケジュール。

例えば、毎朝、この時間に主が語ってくれるとか、

このタイミングで、今日必要な御言葉を教えてくれるとか。

今ある問題がいつ解決するのか…とか。

もしそうだったら、

私たちはもっと効率よく信仰を持てるんじゃないか…

主のタイミングに合わせて、

私が時間を合わせ、主の前に出れば良いのです。

そうすれば、私たちは主の答えを待つ…という事で

もどかしく感じたり、

私には答えてくれない…というような思いもなくなります。

ストレスフリーです。

しかし、実際はこのような事はありません…💦

主が時間を決めて何かを語られたり、

何かが成就するような事はない…

主には計画があるはず。

しかし、私たちには教えてもらえない…

決まった時間はおろか

私たちは「待たされる」と感じる事が多いです。

主は答えてくれるんだろうか…

いつ主の時が来るんだろうか…

私の祈りは主は聞いて下さるんだろうか…

この様に感じる事が殆どです。

どうしてだろう…

主は、私たちの「信仰」をご覧になりたいのです。

主を信じて待つ姿。

主に期待する姿。

主に祈り続ける姿。

信仰とは「待つ事」なのかもしれません。

目の前の問題がいつ終わるのか分からないけれど、

終わりが見えなく、

苦しさだけを感じていても、

今も主が共に居て下さっていると信じる姿。

目に見る事が出来ない主を信頼する姿。

状況は何一つ変わらず、時間だけが過ぎていたとしても

主から離れない姿。

…もし主のタイミングや計画を知っていたら、

私たちには「信仰」も「信頼」も必要ないのです。

毎朝、仕事に行く為に、決まった時間に電車にのるような状態になるのです。

毎朝、決まった時間に乗る電車には、

恵みを感じる事もなく、感謝を感じる事もありません。

日常の1つであり、当たり前なのです。

もし電車が何かの理由で遅れたら、

「急いでるのに…!」とイライラさせられたりします。

主との関係も同じようになるのです。

信仰とは「待つ事」であり、

待つからこそ、感動も恵みも感じる事ができる。

そして、主の偉大さも感じるのです。

そう考えたら、「待つ事」って大切。

主がご覧になりたい「私の待つ姿、待つ姿勢」

待つ時は、主が私をご覧になられてるんだと思いました。

今日も、主の答えや導きを、期待を持って待とう!!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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