無意識に大きな判断ミスをする時【マルコ10:46-52】

2024年

彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。
そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

マルコ10:46-52

今日の聖書の箇所は、福音書の3か所に記録されています。

(マタイ:20:29-34、ルカ18:35-34)

この時、イエスさまは弟子たちに

自分の最期(十字架の死と復活)について話しをされていました。

そして弟子たちと共に、エルサレムを向かう道中なのです。

途中エリコを通った時、群衆までもがイエスさまについて来たのです。

群衆は、癒しを求めたりしている記録がなく、

イエスさまが行かれる所について行ったのです。

という事は、群衆はイエスさまを知っており、

もしくは癒しを受けたことがあったのかもしれません。

イエスさまファンのような方たちだたのではないか…と思います。

イエスさまを見かけ、「わーーイエスさまだ!」と

イエスさまが行かれる方向へと共に足を向けたのです。

群衆が通る気配をした盲目のバルテマイは周りの人に聞いたのです。

(マタイを読むと、バルテマイともう1人いました)

そして噂のイエスさまが通られるという事を知りました。

そしてバルテマイは目を癒してもらおうと、大声で叫んだのです。

すると、群集はバルテマイを黙らせようとして、たしなめたのです。

今日は、聖書を読んでいて、この個所に心が留まりました。

「どうして群衆はバルテマイを黙らせたんだろう…」

弟子たちはもちろん、群衆も

イエスさまがどういったお方なのか知っていたはずです。

貧しい人と共におられ、慰められ、病の人を癒すお方。

多分、バルテマイが叫んだ時、

その声に多くの人は反応したはずです。

そしてバルテマイの物乞いの姿を見て、

物乞いだと認識出来たはずです。

もしかしたら、盲目であると認識出来たはずです。

であるとしたら、どうして「イエスさまはコチラに居られるよ」と

教えてあげなかったのでしょうか。

もしくは、イエスさまに「主よ。あなたの助けを求める者が居ます」と

イエスさまに声をかけなかったのでしょうか。

群衆の中にはイエスさまの癒しを受けた者が居たと思います。

もしくは、それを目撃している人もいたと思います。

しかし、バルテマイに対して

助けの手を差し伸べる人が居なかったのです。

群衆がバルテマイを黙らそうとたしなめたのですから。

殆どの人は、バルテマイに「静かにするように」と判断したのです。

たしなめたのですから、叱ったり叱責した訳ではなく、

「分かった…分かった。ちょっと静かにしよう、イエスさまは忙しいお方だから」と言ったかもしれません。

まさに、イエスさまへ導くべき人を見て

多くの人はどうして反対の行動をとったんだろう…

変ですよね。

もしかしたらバルテマイの盲目は有名で、

生まれた時から盲目だったかもしれません。

「この病気は流石にダメだ…」と思ったのかもしれません。

私は、多分これが(↓)理由じゃないかと感じる事があります。

イエスさまも弟子たちも、エルサレムを向かっていたのです。

イエスさまはこれから十字架に架かろうとしていたのです。

弟子たちはイエスさまの最期(十字架の死と復活)についての話は

理解が出来ていませんでした。

しかし、多分、イエスさまの雰囲気が違ったと思います。

イエスさまのこの世に来られた意味に向かって、

まさに成就しようとエルサレムに向かわれていたのです。

道中で出会った群衆たち。

群衆たちもイエスさまがいつもと違う雰囲気だと

感じたのではないか…

マタイには「群衆」がたしなめたと記録されており

マルコには「大勢の人」

ルカには「先頭にいた人々」となっています。

だから多分、群衆はイエスさまの前後にいたんだと思います。

イエスさまがどこかに向かわれている…と分かっていたと思います。

だから先頭にも群衆がいたのです。

多くの人が間違った行動をとったのは、

目標に向かって一進していたからではないか…と思うのです。

何かに向かって集中している時、

人の心も思考も集中します。

…人は集中すると、正しい判断が出来なくなるのかもしれません。

…真逆の選択を本能的にしてしまうかもしれません。

…大切なものを見落とす可能性があるかもしれません。

…自分の素の部分が動く可能性があるかもしれません。

(バルテマイを見て物乞いだと感じ、

これは流石に癒されないだろう。社会の底辺の人物。

相手にする対象ではなく、無視してよい対象…という思考)

何かに集中すると、

大きな間違いを起こしてしまう可能性があるんだと

私に教えられたように感じました。

子どもの学校に対して集中している私。

あなたは問題に集中すると、

大切なものを見落としているよ。

するべき判断とは違うものを選択してる可能性があるよ。

と語られたように感じました。

ちょっと、立ち止まろう…

集中し過ぎるのは良くない…

主に祈ってみよう。

私は間違った選択をしているかも。

集中しすぎて、ゴールの方向さえ間違えている可能性もある…

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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