疲れ切った心と体…霊的回復する方法【マタイ6:10】

2024年

御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

マタイ6:10

コロナの感染後だからか分からないのですが、

何か心も身体が疲れ切っています。

何もしたくないし、ただ泣きたい…

そんな時って誰でもあります…

今は何もしたくない…

でも、またこれからも次々と、学校の事で訪問の予定があります。

準備しないと…と思っても、

身体も心も動きません。

今回、子どもの学校の事で学校が

このまま韓国の学校として存続するかどうか

1つの瀬戸際です。

私や沢山の保護者、卒業生は存続を願っています。

しかし、主がどう思われているのかは分かりません。

私は、今回、この件を取り組むにあたって、

今までと祈り方が変わってきました。

自分の願い通りになるようにとは祈らなくなり、

主の御心がなりますように…と。

主の御心を教えて下さい。

私が今日、会う人とどの様に話せば良いのか、主が教えて下さり、

何よりもまず、今日会う人が主を知り救いを得れるようにと祈るようになりました。

今までは、

自分の願いがあった場合、

「主よ。どうかこの様になりますように。助けて下さい。導いて下さい。」と祈っていました。

そして、私の祈りの通りになった時、

私は「願いが叶えられた」と思っていました。

でも今は、「願いが叶えられる」という状態がどの様な状態かは分かりません。

結果が御心なのだと思い、日々過ごすようになりました。

その様に過ごす中、

私の今までの信仰は「ゴールありき」の祈りだったと気付いたのです。

主にゴールを指定して、自分が置いたゴールが

「聞かれた祈り」であり、

自分の想定外のゴールで終わると、

「与えられなかった、きかれなかった祈り」だと感じていました。

もちろん、日が経ち「きかれなかった祈り」には

主の計画があった事。

その時は、分からなかったけれど、後になってみれば

聞かれなかった事が祝福であったと気付く事はありました。

しかし、今は自分の願いはありながらも

ゴールは決めて祈らないのです。

子どもの学校が不安定になって1年以上経ちます。

私が今まで直面した問題で一番大きいかもしれません。

(自分個人の問題ではなく、多くの人が関わり多くの人に影響がでる問題)

この問題に関わる中で、聖書に出てくる沢山の話の中で

いくつかの心情を経験してるように感じています。

…私は普通の保護者であり、弁護士でもないのです。

しかし戦う相手には何人もの弁護士がいます。

ある日突然始まった「学校改革」。

私は「ヨシャパテ王」になった気分でした。

平時だと思って過ごしていたのに、

急に大軍に攻められてきたのです。

こちらには応戦する人も力も武器も、何一つないのです。

ヨシャパテ王の脳裏には「捕虜」の文字が浮かんだと思います。

絶対絶命の危機に立たされたのです。

ヨシャパテ王の気分となり、ヨシャパテ王がこの時、

まずした事は、作戦を練る事ではなく、

「人々を集め、礼拝し賛美した」という事です。

ヨシャパテ王の心境に立たされ、

聖書を通して、自分が今何をしないといけないのか

予め示して下さっていると気付きました。

…一番悩んだのは、私がこの学校改革に関わるかどうか。という点です。

普通の保護者として「時々意見を言う」位の立場でも良いはず。

自分が先頭を切って取り組むことなのか…という点です。

その中で「良きサマリヤ人」の話が思い出されたのです。

自分の知らない人が、自分が進む道中に倒れていました。

祭司やレビ人はその人を横目に通り過ぎました。

しかし、次に通りかかったサマリヤ人は、

倒れた人に関わったのです。

関わるという事は、自分の時間やお金など使用したのです。

つまり、自分の人生に取り込んだのです。

サマリヤ人は、見知らぬ人であっても、

自分の人生の道中に出会った事柄。

自分にそれが出来るかどうか…というより、

自分の人生に取り込み、

自分が出来る限りの事をサマリヤ人はしたのです。

この学校改革…

私の子どもが在学中に起きた事。

私はあと3年間、目をつぶって通り過ぎる事もできました。

しかし、自分の人生で出会った問題であり、

目に見えて「不正」が行われているのなら、

自分の人生に取り入れようと思ったのです。

…また、何度も何度も、私は自分より大人で知識のある人と話し合う事になったのです。

知らない人に会い、状況を説明し、助けを求めに行く必要が出て来たのです。

私は、多くの人前で大きな声で話すことなんて出来ません。

それは本当に不得意とする事なのです。

この時モーセの気持ちが分かりました。

モーセは与えられたミッションを前に

「私は昔から言葉の人ではない」と主に訴えました。

私もその心境だったのです。

しかし、主はモーセにアロンという弁が立つ人を与えられました。

主は、私にも弁が立つ高校のPTA会長を与えられたのです。

…また、人前で方向性を決め決断し話を進めていく中で、

絶対に反対者が出てきます。

私は、1人ずつ時間をかけ丁寧に対処していきました。

しかしそれはまるで、ソロモンのようだと気付かされたのです。

「隣国の問題解決をするには戦略結婚しかない」と

自分の知恵と行動力を用いて、ソロモンは自分で対処したのです。

ソロモンは「こうすれば大丈夫」と自分の方法で

解決出来ていると思っていたのです。

しかし、ソロモンの晩年は信仰から離れてしまいました。

主が、自分の経験や、人格という小手先で対処していたら、

一番大切なものを失う…という事を語られました。

…他にも、聖書のあの話が自分と重なる…と感じる事があります。

ただ分かっている事は、

自分では何も出来る事が1つもないという事。

そして、自分で出来ると思ってはいけないという事。

これは、何かに向けての「訓練」なんだろうな…という事です。

しかし、今、私の身体も心も疲れ切っています。

だからまず…

賛美を沢山浴びて、霊的回復をしよう…と思っています。

私は、この方法で回復しなかったことはないです…

祈る言葉も出なくなった時、

賛美のシャワーが一番です!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

タイトルとURLをコピーしました