祈っても与えられない事がある【出エジプト4:10】

2024年

モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

出エジプト4:10

祈っても与えられない事ってありませんか?

今日、聖書を読んでいて感じた事を記録します。

モーセは、本人にとって不利な時代に生まれました。

エジプトの王がイスラエルの子ども、

生まれた男児を殺すという命令を出した時代に生まれたのです。

しかし、主の守りにより、

エジプトの王女に拾われ、実母に育てられ、

エジプトの王室で教育を受け成長したのです。

生まれた時から、主の御手の中で生かされていたと分かります。

しかし、同胞を思う行為が人生を狂わせました。

40歳の時に、逃亡生活を余儀なくされたのです。

逃亡先で結婚をし、羊飼いとして40年生きました。

モーセはこのまま人生を終えると思っていたと思います。

しかし80歳になってから、主に呼ばれたのです。

大きな歴史に残るミッションを与えられたのです。

エジプトにいるイスラエルの民を奴隷から解放させ、

約束の地へと導く…

壮大なるミッションです。

どうして、40歳ぐらいの時に、

モーセが王室にいる時に

そのようなミッションを与えられなかったのか。

40年間、人目を避け、静かに暮らしてきた80歳のモーセ。

モーセは自分がこの大きなミッションを遂行するために

致命的な不足した点があると主張したのです。

モーセは弁が立つ人ではなかったのです。

これは、リーダーとして大きな問題です。

誰もが、この様な役割は、口達者でなければ難しいと感じます。

モーセが「私は昔から言葉の人ではない」と主に訴えました。

主がモーセと共にいると言われても、

勇気を出せないモーセに対して、主はモーセを

「弁が立つ人」と変えらえたのでもない。

モーセに、弁が立つ人(アロン)を与えられたのです。

…どことなく、私たちの考えでは、

モーセに弱い面があるならば、それを癒したり、

力を与えるという事を期待してしまいます。

私たちがモーセであれば、

自分の不足な部分を変えられる事を望むと思います。

しかし、主はその部分をそのままにしておかれたのです。

そして、弁が立つ者を与えられたのです。

つまり、主がモーセに語られ、

モーセがそれをアロンに伝え、

アロンがエジプトの王に語ったのです。

どことなく、非効率ではないですか?

主がモーセに語り、モーセが語るのというのが一般的だと思ってしまいます。

伝言ゲームのように、主 → モーセ → アロン

と言う方法を主は望まれたのです。

モーセが弁が立たず、アロンが弁が立つのであれば、

主はどうして初めからアロンを選ばれないのだろうか。

主は、私たちが協力する事を望まれているんだと思います。

モーセに「同労者」を与えられたのです。

これはもしかしたら、

誰も誇る事がないように、そうされたのかもしれません。

この個所を読んで分かる事は、

望んでも、自分には正当な理由があっても

主は与えれれない事があるという事。

そして、主は私たちが協力する事を望まれている…

という事が分かります。

私たちは、主がどういったお方なのか

聖書を通してもっと知っていく必要があると感じました。

…私が望むものは御心に沿っていると思う…

しかし、祈っても祈っても与えられない…

という事は、

私が望む方法ではない方法を、

主が望まれているのかもしれない。

主がどのようなお方なのか、

主の方法を知っていくのが凄く大切…

今日も、聖書を読もう…!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

タイトルとURLをコピーしました