モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
出エジプト4:10
祈っても与えられない事ってありませんか?
今日、聖書を読んでいて感じた事を記録します。
モーセは、本人にとって不利な時代に生まれました。
エジプトの王がイスラエルの子ども、
生まれた男児を殺すという命令を出した時代に生まれたのです。
しかし、主の守りにより、
エジプトの王女に拾われ、実母に育てられ、
エジプトの王室で教育を受け成長したのです。
生まれた時から、主の御手の中で生かされていたと分かります。
しかし、同胞を思う行為が人生を狂わせました。
40歳の時に、逃亡生活を余儀なくされたのです。
逃亡先で結婚をし、羊飼いとして40年生きました。
モーセはこのまま人生を終えると思っていたと思います。
しかし80歳になってから、主に呼ばれたのです。
大きな歴史に残るミッションを与えられたのです。
エジプトにいるイスラエルの民を奴隷から解放させ、
約束の地へと導く…
壮大なるミッションです。
どうして、40歳ぐらいの時に、
モーセが王室にいる時に
そのようなミッションを与えられなかったのか。
40年間、人目を避け、静かに暮らしてきた80歳のモーセ。
モーセは自分がこの大きなミッションを遂行するために
致命的な不足した点があると主張したのです。
モーセは弁が立つ人ではなかったのです。
これは、リーダーとして大きな問題です。
誰もが、この様な役割は、口達者でなければ難しいと感じます。
モーセが「私は昔から言葉の人ではない」と主に訴えました。
主がモーセと共にいると言われても、
勇気を出せないモーセに対して、主はモーセを
「弁が立つ人」と変えらえたのでもない。
モーセに、弁が立つ人(アロン)を与えられたのです。
…どことなく、私たちの考えでは、
モーセに弱い面があるならば、それを癒したり、
力を与えるという事を期待してしまいます。
私たちがモーセであれば、
自分の不足な部分を変えられる事を望むと思います。
しかし、主はその部分をそのままにしておかれたのです。
そして、弁が立つ者を与えられたのです。
つまり、主がモーセに語られ、
モーセがそれをアロンに伝え、
アロンがエジプトの王に語ったのです。
どことなく、非効率ではないですか?
主がモーセに語り、モーセが語るのというのが一般的だと思ってしまいます。
伝言ゲームのように、主 → モーセ → アロン
と言う方法を主は望まれたのです。
モーセが弁が立たず、アロンが弁が立つのであれば、
主はどうして初めからアロンを選ばれないのだろうか。
主は、私たちが協力する事を望まれているんだと思います。
モーセに「同労者」を与えられたのです。
これはもしかしたら、
誰も誇る事がないように、そうされたのかもしれません。
この個所を読んで分かる事は、
望んでも、自分には正当な理由があっても
主は与えれれない事があるという事。
そして、主は私たちが協力する事を望まれている…
という事が分かります。
私たちは、主がどういったお方なのか
聖書を通してもっと知っていく必要があると感じました。
…私が望むものは御心に沿っていると思う…
しかし、祈っても祈っても与えられない…
という事は、
私が望む方法ではない方法を、
主が望まれているのかもしれない。
主がどのようなお方なのか、
主の方法を知っていくのが凄く大切…
今日も、聖書を読もう…!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)