主は何処におられるのか【創世記28:15】

2024年

 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。

創世記28:15

今日、主日礼拝で「主はみちびき」という賛美をしました。

これは、私が韓国に留学していた時に、

凄く沢山歌った賛美です。

主はみちびき 私を覆う
この世の道で疲れ果てて 立ち上がれない時にも 私を支える
起きて歩め 主が力与える 起きて歩めよ 主が助ける

3番の歌詞に、

「振り返る時 いつもいる主 静かに微笑みながら 私を導く」とあります。

今日は、この歌詞が心に留まりました。

そうなんです…

主を感じる多くは「振り返った時」です。

いつも、自分がどうして良いのか分からない時、

どの道に進めば良いのか、どの選択をすれば良いのか

もうどうすれば良いのか分からない時…

「主よ。‟これが道だ!これに進め!” と示して下さい」とよく祈ります。

しかし、多くの場合、祈っても答えが分からないのです。

そして私たちの心には「主は本当に居られるのか…」という疑いが心に浮かぶのです。

思いもよらず嬉しい事があると、

「わーー主よ!感謝します!」と嬉しくなり感謝が出ます。

しかし、何か行き詰ると…祈っても答えがパッと分からないと…

直ぐに自分の中からフツフツと不信仰が湧き出てくるのです。

「やっぱり、祈っても分からない」

「前もそうだった。私は祈っても、〇〇さんのような導きを感じられない」

「私は、他のクリスチャンの人たちのような体験をしたことがない」

主は私に答えて下さらない…と感じ、悲しい思いになるのです。

でもね…

多くの「主の導き」は、

振り返った時に分かるんだと思います。

先に分かる事は、凄く少ない。

だから、私たちは時折、立ち止まって自分の人生を振り返る必要があるのです。

私たちは、日々、とても忙しい…‼

これは罠かもしれません。

立ち止まって振り返らないと、主が共に居て下さったという事を感じる事ができないのに。

振り返る余裕がない状況は…

主が共に居て下さるという事を感じる事が出来ない状況。

つまり、、、

「やっぱり主は私には答えて下さらない」で終わってしまうのです。

以前「人生とはボートを漕ぐようなもの」と言う内容のブログを書いた事があります。

ボートは後ろ向きに漕ぎます。

自分には、進んできた風景しか目に入りません。

人生も同じで、過去や現在は見えても、

明日の景色を誰も知らないように、

人は未来を見る事はでいないのです…

自分が見る事が出来るのは、

自分が進んで来た景色だけ。

つまり…自分が辿ってきた今までの人生であり、

主が共に居て下さったと感じた信仰生活なのです。

過去の色々な局面を経験した時、

主が共に居て下さったという確信を見ながら、

見る事が出来ない未来を進むのです。

…もし、過去の局面に、主が共に居て下さったと言う事を感じなかったら…

先の見えない未来も…不安…

未来に主が見えない…

今、目に見えて「これが道だ! これに進め!」と

方向を示して下さらないのは、

主の愛なのです。

主は私たちに選択の自由を与えて下さいました。

私たちに委ねられているのです。

未来は、「当たり」か「ハズレ」しかないのではないのです。

この選択に失敗したら、人生が終わるのではないのです。

Aを選べば、Aから道が開け

Bを選べば、Bから祝福が与えられるのです。

私たちにとって大切な事は、

「あの時、主は私と共に居て下さっていたんだ!」と感じる事。

定期的に立ち止まり、祈りながら主に教えて頂きましょう!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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