宗教は全て同じ?【ヨハネ14:6】

2024年

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

ヨハネ14:6

ある人にこんな事を言われました。

「宗教ってどれも同じじゃない?」

「結局は弱い人の集まりというか、結局は、同じところに到着するんじゃない?」

今までにも何度か同じような事を聞いた事があります。

今回、この話を耳にして、思い出した話があります。

多分、アメリカの牧師のメッセージだったと思うのですが、

牧師先生が、違う宗教の地位ある方々と話した時、

「私たちは、違う宗教を持っているが、同じ山を登っているようなもの」

「どの道(宗教)で登っても、同じ(または似たような)救いの頂上に着くのだから、どの宗教でも同じ」

と、他宗教の方に同意を求められたようです。

その時に、牧師先生は、

「確かに、多くの宗教は山登りに例えられている。

宗教により道は違ったとしても、

その道を上り詰める事により、

救いに到着する事が出来ると例えられている。

でも、キリスト教は違う。

私たちの神は、私たちに努力してここまで登って来いとは言われない。

私たちの神は、神の方から私たちの方に降りて来られる神である…」

そのメッセージを聞いた時、凄く感動しました。

道は違うけれど全ての宗教が同じ山を登っている…というのは

一見、合っているかのような感じてしまうかもしれません。

それは全ての人にとって、

人生は楽ではないからかもしれません。

辛く苦しい事があっても、諦めずに人生を登り続ける。

その上に救いがあるんだ…と言う思考は

国を問わず、多くの人間が持つ思考なのかもしれません。

しかし、この牧師先生が言われたように、

私たちの主は、努力して私の所まで来い!とは言われていません。

徳を積んで、修行を積んで、善行を行なって…

私の所まで来なさいとは言われないのです。

…主が私を救おうとしてくれる理由、

主が私たちを愛してくれる理由、

それは、

私の方に愛される理由があるのではないのです。

主の側に愛する理由があるのです。

私が他の人と比べて、清く正しいからではないのです。

また私が、善を行い悪を憎む人生を歩んでいるからでもないのです。

主の一方的な愛なのです。

救いは、私たちが善行を積むという行為により救われるのではなく、

主が十字架に架かって下さったと言う行為があるから

救われるのです。

キリスト教は、頑張れば救われるものではない…

努力すれば愛されるものでもない…

理由は、私たちの側ではなく、主の側にあるのです。

主が私の神さまで、本当に良かった…

努力で救いを得れるのであれば…

私は救いに到着出来ないと思います。

主に改めて感謝。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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