いつも喜びに満たされる為に【Ⅰテサロニケ5:17】

2024年

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

Ⅰテサロニケ5:17

知り合いの韓国の方の話です。

時々、カカオ(LINEの韓国版)が来ます。

いつも同じパターンの話の展開なのです。

始めは「久しぶり!」と楽しく始まるのですが、

直ぐに自分の生活や境遇について、不満が続きます。

一回連絡が来ると…2時間はカカオのやり取りが続くのです。

ずっと続く不満を吐き出します…

彼女夫婦は日本で住みながら、立派な一軒家を建てたのです。

私はその家を見ながら「なんて素敵なお家♡」と思うのですが、

彼女には「素敵なお家」ではなく「借金のかたまり」に見えるのです。

お子さんが「マクドナルドを食べたい!」というとイラっとするというのです。

どうしてイラっとするんだろう…

マクドナルドを買えない家庭状況ではないハズ。

自分の学生の時は親に「〇〇を買って! 〇〇を食べたい!」と言えなかったそうです。

経済的な理由ではなく、お父さんが怖かったそうです。

「自分は ‟〇〇をしたい” なんて言えなかったのに、

私の子どもは何のためらいもなく、欲しい!食べたい!という‼」と言うのです。

そして面白いと思ったのは、

一番下の子どもは、彼女に似て「食べたい・欲しい」と言わないそうです。

しかし、彼女はその子を見て「心配だ」と言うのです。

「主張されてもイラっとするし、主張されなかったら心配なの?(笑)」というと

笑いながら「そうなのよ…」と。

私は途中で、話を聞くのがしんどくなってくるのです(笑)

「そんなに不満があったらしんどいよね?」というと

「これでも気持ちを押さえて話してる!」と言うのです💦

半面教師ですが、

彼女と話すと「いつも喜んでいなさい」という御言葉の大切さを感じます。

人は、いつも喜んでいるべきだと感じるのです。

もともと主が私たちに命を与えられた時、

生きる事の「苦しみ」を与えられたのではなく

「喜び」を分かち合おうと命を与えられたと思います。

同じものを見たり、聞いたりしても、

喜べる人と喜べない人がいるのです。

その差はなんだろう…

私は「満足」ではないかと思います。

いつも喜んでいなさいと言う御言葉は、

いつも満足できる状態。

いつも愛に満たさた状態。

だと思うのです。

しかし、いつも満足し続ける事。

いつも愛に満たされる事も難しい…

これらは「主にあって」です。

私たちには「欲」があります。

終わりのない「欲」

もっともっとと、上を目指してしまい、完成される事はない「欲」を持っています。

「これぐらいで満足する事にしよう」という満足ではなく、

本当に「感謝に満ちた満足」は、

主にあって出来る事だと思います。

主が私に不足なく与えて下さって、今の自分があると知ること。

これは、聖書を読み祈る事によって気付かされる事だと思います。

また「愛」も同じです。

人からの愛には限界があります。

また私たちは、愛する事より愛される事を望んでしまいます。

私たちが持つ愛は、条件や環境、心情に左右されてしまいます。

どんな時でも同じように愛する事は難しいのです。

つまり、「人を介して」得る愛や満足には、

限界があり完全ではないのです。

私たちを完璧な愛で包み込む事が出来るのは、

配偶者でもなく、親でもない、恋人でもない…

主だけなのです。

この主の愛も、聖書や祈りを通して感じる事が出来るのです。

…だから、いつも喜びに満たされる為には、

信仰が必要なんだと思います。

信仰なしに、いつも喜ぶ事も、満足する事も、愛する事もできない…

今日も、聖書を読んで、賛美を捧げ、祈る時間を持ちたいと思います‼

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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