11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理者だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」ヨハネ20:11-15
今日の聖書の箇所。
凄く考えさせられました。
復活したイエスさまにマグダラのマリヤが会う場面です。
13節で、マリヤが「私の主」と呼んでいるのです。
当時、イエスさまが十字架で亡くなった時。
群衆は「十字架に付けろ!」と殺気立っていたのです。
そして主の弟子たちは、固唾を飲んで隠れながら、
事の成り行きを眺める事しか出来なかったのです。
イエスさまが十字架で亡くなった後、
弟子たちは一か所に集まり、隠れるように戸を閉めていたのです。
その理由として「ユダヤ人を恐れて」と記録されています。
イエスさまへの群衆の怒りの矛先が、
弟子である自分たちに向けられるのではないか…と恐れていたのです。
復活したイエスさまが弟子たちに現われ、
イエスさまの弟子たちへの第一声は、
「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。
それ程、弟子たちは恐怖に恐れていたのです。
そんな状況の中、
マリヤたちは歩いてお墓に行ったのです。
そして、お墓の中にいた御使いに会いました。
マリヤはそれが御使いだと理解したかどうかは不明です。
もしかしたら、理解出来ていないのではないかと思います。
マリヤは御使いに対して
「誰かが〝私の主” を取って行きました。
どこに置いたのか、私には分からないのです」と言ったのです。
「私の主」と言ったのです。
もし目の前の人が御使いではなく、ユダヤ人だとしたら…
どうなるでしょうか。
多くの弟子たちは、恐れに襲われ、皆で集まり隠れていた状況だったのです。
私がマリヤだったら…
もし私がマリヤで「主に会いたい…」という思いに駆られ
歩いてお墓に行けたとしても、
知らない誰かに会ったら「私たちの主」と言ってしまいそうです。
どうして私の口からは「私たち」というのか…
責任転換です。
私だけでなく、多くの人が主を慕っている。
私たちの主を返して欲しい!という思いをぶつけると思います。
マリヤがこの個所で「私の主」と言ったのは、
本当にマリヤの主への思いが、
他の弟子たちとは違う。私とも違う…
…イエスさまは知っていたのです。
危険を顧みず、マリヤたちは自分のもとへ来ると。
だから、御使いを準備されたのです。
ヨハネの福音書によれば、
イエスさまが、ご自分の復活の姿を一番に見せられたのは、
マグダラのマリヤ。
マグダラのマリヤに対しての記録は多くありません。
悪霊に取りつかれていて、主に悪霊から解放して頂いたのが、主との出会いです。
その後は、主に仕えた一人として記録されています。
主に、どのような思いを持って仕えていたのか…
考えさせれます…
少なくとも、今の私とは違う、
主への思いにもっと深さがある…
私は、周りの状況、自分の立場、
これらに気を取られ、
時には、主を隠すような言動をしていると思います…
どの様な状況でも「私の主」と呼べるようになりたい…
その為にも、私は主との深い関係を築きたい…
マリヤのような信仰を持ちたいです…
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)