自分を取り巻く環境が悪い時…【使徒の働き24:16】

2024年

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。

使徒の働き24:16

何か、自分を取り巻く環境や条件が悪い方向に傾き、

追い込まれる時ってありますよね?

どうする事もできない時…

どうすれば良いのでしょうか。

モーセが生まれた時代、エジプトの王はこの様に言いました。

「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない」

エジプトの民より奴隷のイスラエルの民が増えて来たので、

反乱を防止してこのような命令を出したのです。

モーセの両親は奴隷です。

絶対に服従するしかないのです。

生まれた男の子はナイル川に投げ込まないといけないのです。

その他の選択肢はない状態です。

しかし、モーセの両親はなんとか隠し通したのです。

そしてもうこれ以上どうする事もできない…となった時、

パピルスの葉でかごを作り、防水するためコーティングして、川の茂みに隠したのです。

多分…モーセの親はこの茂みで王女がいつも水浴びに来ていたのを知っていたかもしれません。

そしてモーセの姉は弟のモーセがどうなるか隠れて見ていました。

王女がモーセを見て憐れんだ時「私が乳母を連れてきます」と声をかけたのです。

結局、殺される運命だったモーセは、生き延び…実母に育てられたのです。

王女から養育費を受けながら。

そして後には、エジプトで最高の教育を受けることも出来たのです。

モーセの母親は、どうして川の茂みにモーセを寝かせたカゴを水面に浮かしておいたのでしょうか。

川の岸辺にモーセを置いた方が、もっと安心ではないでしょうか。

私の想像ですが、

岸辺に置かず、水辺に浮かべるというのは、

自分ができる最善をし終え、完全に自分の手から手放す…

「主の手に委ねた」という事を意味しているのではないか…と感じました。

自分に出来る最善を行い、最後は主の手に委ねたのです。

モーセは、死ぬしか選択肢がない状況に置いて、

人間が想像も出来ない方法で、

しかも普通に育つよりも一層豊かに、育つ環境が与えられたのです。

…これは、モーセの家族が自分たちが置かれた状況に

「仕方がない」「どうする事もできない…」と、諦めなかったのです。

主に祈り委ねながら、自分に出来る最大の事をしたからではないでしょうか。

置かれた環境に心を奪われず、

主の御業を求め、主を見上げたのです。

主に委ねるとは、何もせずに待ち続ける…

という事ではない場合が多いと思います。

旧約聖書に出てくるエステルも同じです。

エステルはペルシャの王妃宰相に選ばれました。

しかし悪い宰相であるハマンの悪知恵により、全てのユダヤ人を殺すという命令を下したのです。

ハマんの悪知恵に気が付かない王は、その命令を王命としたのです。

エステルがユダヤ人だと王は知りません。

エステルは黙っていれば生き延びる事ができます。

しかし、自分が置かれた環境は、全ての同胞が殺されるのです。

エステルは何もせずに黙っていれば、

自分は助かり、民族は滅ぼされるのです。

しかし自分は王に呼ばれていないのに、

王女から会おうとする事は死刑に当たる罪。

エステルはユダヤ人たちに

3日3晩、断食し祈るようにと伝えました。

そしてエステルは、王に上訴する事ができ、

ユダヤ人が全滅される事から守られたのです。

エステルも自分に出来る最善を祈りながら行ったのです。

ヨセフも奴隷という身分を強いられました。

しかし、与えられた仕事を忠実に真摯に取り組み生きたのです。

自分の思いで外に出ようと願ったこともありました。(料理官長たちの夢を解き明かし、自分が外に出れるように話して欲しいと願ったのです)

主の時が満ち、ヨセフは解放され、自分の想像を超えたものを手に入れる事が出来ました。

…道が塞がれ、自分の置かれた環境が良くない方向に囲まれたとしても、

私たちは、祈りつつ自分に出来る最善をする必要があるのです。

そして、完全に主に委ねる必要があるのです。

受験勉強も一緒ですよね。

「希望の学校に行きたい!」と祈るだけではダメなのです。

祈りつつ勉強、という自分の努力をする必要があるのです。

完全に委ねた…といって何もしなければ、

結果もそのまま返って来るのです。

ただ…聖書を読むと、自分の環境に選択肢がなくなり、追い込まれ…

成すすべを失くした状態で(最善を作るような事はなく)

しかし時が満ち、主が助け道を切り開いてくれると言う場合もあるのです。

ハガルです。

アブラハムの妻サラの女奴隷です。

サラが身ごもる事が出来ず、女奴隷のハガルから子を得ようとしました。

ハガルはイシュマエルを生みました。

そして後、サラはイサクを生んだのです。

そしてある日、イシュマエルがイサクをからかっているのをサラが見たのです。

2人は追放されるのです。

パンと水を持って荒野に追いやられたのです。

これは普通に考えて、死を意味するのです。

水が底をつき、イシュマエルが死ぬのを見たくないと、離れた所でハガルは声を上げて泣いたのです。

その声に主は答えられたのです。

ハガルも窮地に追い込まれた時、

した事は自分の強いられた状況に従っただけです。

そこから最善を尽くして…と言うような事はありませんでした。

しかし、イシュマエルが命が尽きる前に、主が手を伸ばされています。

多分… 主はこのハガルの心を砕かれたかったのかどうかは分かりませんが、

ハガルは追いやられるがままに、追いやられ、

最善を尽くすと言うようなことなく、主が答えられた。

という場合もあるようです。

しかし、多くの場合は、

自分が置かれた環境に落胆し、何もせず黙って待つのではなく、

自分が出来る最善を尽くし、

主に委ねる…というのが大切だと思います。

置かれた環境に心まで奪われず、

自分が出来る最善は何か…という事に目を向けたい…

主に祈りながら…

主の御業は、私たちの想像を超えてきます!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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