これが、リバイバルの近道ではないか?【Ⅰペテロ3:8-9】

2024年

最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

Ⅰペテロ3:8-9

今日、主にお祈りをしましたか?

どんなお祈りをしましたか?

今ある問題解決、病の回復、将来について、

経済的問題、これからの進路、人間関係、

忙しい今日一日、主の守りと導きを得れるように

もしくは… 今日の食事の祈りだけ…?

今日、祈った祈りの対象は誰でしょうか。

誰かの救いの為のとりなしの祈り…?

しかし、多分、

私たちの祈りの大半は「自分の〇〇」や「自分の家族の〇〇」ではないでしょうか?

自分の問題解決。家族の病、自分の将来、

家庭の経済的問題、子どもの進路、自分の人間関係、

…主に祈る時、

その祈りの対象は誰なのか、考えてみる事は良いと思います!

多分、多くの人は、とりなしの祈りより、

自分の願い、自分の祝福を

切に祈るのではないでしょうか。(私ももちろんこっち側です)

このような祈りが間違っているのではないのです。

もちろん、祈って良いのです。

聖書には、

思い煩う事なく、主に願い事を知って頂きなさい(ピリピ4:6)と書かれているからです。

…しかし私は、今年に入って自分の祈りに少し違和感を感じていました。

主は私に「そろそろ、祈り方を変えてはどうか」と言われているように感じていたのです。

そんな中、心に留まった御言葉が、

今日の御言葉です。

主が私たちに望まれている事は、

私たちは互いに、

心を一つにする事。同情し合う事。兄弟愛を持つ。

憐れみ深く謙遜である事。

そして私は隣人に対して「祝福」を与える事です。

祝福は「受け継ぐため」に与えられているのです。

主が私たちを祝福する理由は、

私だけが恵まれ、私だけが満たされ、私だけが掛けた事のない人生を歩む為ではないのです。

主から受けた信仰を、隣人に「受け継ぐ」為なのです。

私の為だけに主は祝福を与えられるのではなく、

祝福を私が受け継ぎ、他の人に流すために、

主は私を祝福してくださるのです。

そう思った時に、思い出す御言葉があります。

ヨハネ3:16です。

主は一人子をお与えになったほど、世を愛されたのです。

「私」ではなく「世」と書かれています。

この「世」の中に、私も存在します。

しかし、どことなく「世を愛された」というより

「私を愛された」と受け取ってしまっているように思うのです。

主は、私だけでなく「世」を愛されたのです。

1人として滅びず永遠の命を得るために。

…主は「とりなしの祈り」を望まれているのではないか…

また、自分の願いの祈りも、「〇〇が上手くいきますように」と言った祈りではなく、

「主の思いが私の思いとなりますように」

「主がご覧になられているように、私も隣人を見る事ができますように」

「主が愛されているように、私も愛する事ができますように」

「もっと主と深く交わりを持つ事ができます様に」

…と言ったような、

自分が主の似姿に変えられていく祈りを望まれている様に感じています。

私たち一人ひとりの祈りが変えられていく事が、

日本にリバイバルが起こる近道ではないか…

自分の中にある問題ばかりの解決を祈る事より、

一人一人が主によって信仰が変えられ、

自分の周りに主の祝福を流す方が、

リバイバルにつながるような気がします。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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