祈りの在り方【マルコ14:32-42】

2024年

ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」
それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。
イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

マルコ14:32-42

今日、マルコの14章を読みました。

イエスさまが十字架に架かる前にゲッセネマで祈られた時の話です。

そしてふと思ったのです。

どうしてイエスさまは、3回に分けて祈ったのだろう…

1回の祈りが1時間として1時間を3回に分けず、どうして通しで3時間祈らなかったのだろう…と思いました。

どうして1時間して弟子たちの所へ行き、寝ている弟子たちを起こし、また祈りに行かれたのだろう…

そんな疑問を持ちながら、もう一度14章を読んで見て感じた事があります。

イエスさまは時折、寂しい所に一人で行かれて長く祈られていました。

そして、イエスさまが居ない!と弟子たちがイエスさまを探す場面もありました。

しかし今回は、3人の弟子を連れて行き、少し離れた場所で共に祈るように言われたのです。

イエスさま…

「深く恐れもだえ始めた」と記録されています。

「もだえる」という言葉は「気絶しそうになるほど苦しむ」という意味。

そして「悲しみのあまり死ぬほど」だと言われています。

イエスさまは神の子でありながら人間でもあられたのです。

私たちが聖書で見るイエスさまの姿とは、この個所の姿とは違うと思います。

イエスさまは、嵐に見舞われ、今にも沈みそうな舟の中でも慌てることなく、

権威者の前でも怯む事なく、

悪魔の前でも動じる事がない方でした。

しかし、この場面のイエスさまは違います。

死にそうな程の悲しみ。気絶しそうな程の苦しみ。

このような感情に追い込まれ、地面にひれ伏して祈ったのです。

いつも1人で祈りの時間を持たれるイエスさまが、

今回は弟子たちをご自分の近くに置かれ

共に祈る事を求められたのです。

弟子たちとイエスさまの距離は、

「石を投げて届くほどの所」だと記録されています。(ルカ22:41)

この時のイエスさまは、凄く人間的な弱さを感じます。

イエスさまの本心、この時の素直な気持ちは、

「この時が自分から過ぎ去るように。

この杯を私から取りのけてください。」です。

そして続けて、

「しかし私の願うことではなく、あなたの御心のままを、なさってください。」

と祈られました。

聖書に書かれていないので何とも言えないですが、

弟子たちが共に祈ってくれてるか…気になられたのかもしれないし、

弟子たちが共に祈っている姿に、

少しばかり慰めを感じたかったのかもしれないし…(凄く人間的な発想です)

聖書を見て分かる事は、

1回目に祈った内容を、2回目も祈っています。

同じ祈りをされたのです。

マタイの福音書を見ると、3回目も同じ祈りをしたと記録されています(26:34)

簡単に言えば、

十字架に架かりたくない。でもそれが御心であるなら従います。

という内容の祈りを3回されたのです。

そして、3回目の祈りを終え、弟子たちの所に戻って来られた時のセリフ…!

「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

この中で「もう十分です」という言葉に心がとまりました。

もう十分だと感じるまで、イエスさまは主は祈られたのです。

天のお父様…私は嫌なのです。絶対に嫌なのです。でも御心であるなら…

と祈り続け、

初めは「嫌だ」という思いと、「御心なら」という思いでは、

前者の比重が大きかったのではないでしょうか。

そして祈りを重ねるうちに、

イエスさまの心の比重が、後者へと動いたのです。

私たちは主に祈る時「〇〇して下さい」「〇〇になりますように」という願いの祈りをします。

そして、何度も祈り、私たちは自分の願い通りに

主を動かそうとします…

しかし、この個所を通して学ぶべきことは、

祈りとは、私たちが主を動かすために捧げるのではなく、

自分の心が主の思いに変えられる為に祈るのです。

祈りは、私たちが主を動かすものではなく、

私たちが主の方に動くもの…

私の心が、主の方に変えられるもの。

イエスさまの心は「もう十分だ」と変えられたんだと思います。

もう、私の思い、願いは十分に父に伝えた。

しかし、父の御心が変わる事はなかった。

父は私を遣わそうとこの地に送られた。

その計画に変わりがない。

では、父よ。父が私の心を変えて下さい。

私に、御心に従う心を与えて下さい。

…自分の願いを主に伝え、自分の心が変えられる為に、何度も祈る必要があるのです。

自分の願いを何度も何度も祈るのが、祈りではなく、

何度も何度も祈りながら、主の御心に耳を傾け、

そして自分の心が「主の御心に沿いたい!」という思いに変えられる…

その為に、イエスさまは3回も祈られたんだと感じました。

…イエスさまは、ご自分の使命を知って居られました。

それでも「嫌」だと感じたのです。

死ぬほど悲しくなり、気絶しそうな程苦しまれたのです。

しかし、自分の心が変えられた後は、

「時が来ました。立ちなさい。さあ、行くのです。」と言えるようになるのです。

祈りは偉大です。

私たちも、沢山祈る必要があるのです。

沢山祈り、自分の中の固執した思いから解放され、

主の御心に従いたい!!という思いに満たされたい…

自分の中にある自我から解放されたい…

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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