それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
マタイ16:24
何を求めて生きていますか?
自分や家族にある問題が解決される事。
健康が与えられる事。
経済的心配から解放される事。
人間関係において満足を得る事。
祝福された家族を持つ事。
自分の望むものを手に入れる事。などなど…
自分や自分の周りが幸せに生きる事ではないでしょうか。
自分の為に生き、自分の為に時間を費やす、どうすればもっと良い生活ができるか…
どうすればもっと、余裕ある人生を過ごす事が出来るか、
どうすればもっと、自分のステータスを上げる事が出来るか、
どうすればもっと、周りの人々に認められるようになるのか、
そして私たちは、豊かな幸せな人生を目指して努力するのです。
しかし伝道者の書を見ると、
日の下には何一つ益になるものはなく、全てがむなしい…とあります。(伝2:11)
どんなに努力しても、どんなに素晴らしく成功したとしても、それらは益とはならず虚しいものに過ぎないのです。
私たちは、どの様に生きればいいのでしょうか。
日の下には何一つ益がないのです。
「日の下」とは「この世」と考えて良いと思います。
つまり、自分の幸せを求め、自分の為に努力し、突っ走る人生は無意味なのです。
何の益も得ることが出来ないこの世で、
私たちはどの様に生きなさいと聖書は教えているのでしょうか。
それが今日の御言葉です。
「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。」と言われています。
これは、献身者に求めている特別な事ではないのです。
自分を捨てて、主について行く事を
クリスチャンに求めているのです。
私たちがクリスチャンになるという事、神の民となるという事は、自分を捨てるという事。
「自分を捨てる」とは、自分の今までの生き方を捨てる。自分の今までの価値観を捨てる。という事だと思います。
今までの自分を捨て、新しい主の価値観、主の生き方を持って生きるのです。
今までの価値観、判断、基準を持ち続ける生き方は、
クリスチャンではない人と同じなのです。
自分自身の為に生きて行く人生は、主に近づく人生を歩めず、主から遠ざかる人生になるのです。
主の価値観は、私たちが持つ価値観と大きく違います。
「敵を愛しなさい」と教えています。
これだけを見ても、私たちの価値観とは真逆なのです。
私たちは聖書を読み、主の価値観を身に付ける必要があります…。
1つずつ、自分を捨てる事ができますように…