すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
へブル12:11
昨日、仕事で病院へ行きました。
入院患者さんは、基本的に80~90代と高齢の方が多いです。
昨日、個室の部屋に知らない名前の患者さんの名前があったので、病室に入ってみると…
18歳の男の子!
何か必要なものはないか? お部屋の温度は大丈夫か? などと声をかけても、
ジッと見るだけで返事をしません。
どうしてだろ…と思いつつ「何か困った事があれば、いつでもナースコールして下さいね」と伝え、病室を出ました。
そして担当の看護師さんにこのことを伝えました。
「あー18歳のAさんね。ちょっと対応が難しいのよねー スッゴク痛みに敏感で、何をしても痛い!の連発で困っているの。
そしてAさんのお母さんも、もっと難しいのよ… 痛がる我が子が可哀相と思うんだろうけど。
痛くない治療をして欲しいとずっと言うのよね…」
どうやら、点滴をして途中で点滴が漏れ腕が腫れるなどの異常がなく、
何んの問題もない状態でも、
点滴中は「痛い。我慢できない痛さ」だと言うようです。
そして食べる物にも拘りがあり、お母さんは ″子どもが好きな食べ物” を出すように要求されるのです。
Aくんは、自分が不快に感じた事は直ぐに母親に伝え、そして病院へと連絡が入るのです。
しかし、入院していれば、採血や点滴、検査、リハビリなど避けて通る事が出来ないものがあります。
リハビリも「負荷が大きすぎる。息子は疲れると言っている」と…
お母さんは、出来る限り子どもの意向に沿った環境を子どもに与えたいようです。
子どもが嫌がる事。不快に感じる事。痛みを感じる事。しんどい事。
このようなものから子どもを守ろうとしているように感じました。
Aくんと、苦情を言いに来るお母さんの姿を見ながら…
Aくん、これからどのような大人になるんだろう…と心配になりました。
今までは学生ですが、春から?もしくは数年後からは社会に出るのです。
お母さんはいつまで、我が子の不快を取り除く事が出来るのでしょうか。
自分で自分の思いを伝える事をせず、母親に対処してもらうという方法で、自分を不快から守ろうとするAくん。
今までは、それで人生を歩めてこれたかもしれませんが、
しかし、いつまでも母親に対処を任せる事は出来ないのです。
お母さんは、子どもを守ろうとしていると思うのですが、
それは本当に子どもを守る行動なのだろうか… と考えさせられました。
自分の思いを自分で伝え、相手の意見を聞き、
解決方法や妥協点を、自分で見つけていくという事を学ばずに大人になったら…
困るのはAくんです。
Aくんに起こる不快な環境。
これら1つ1つが学びの時なのです。
1つ1つの不快な環境で、人生に起こる事柄を対処する能力が鍛えられるのです。
という事は、
自分の人生に起こる不快な環境は、生きる力を鍛える為には必要な出来事なのです。
時には理不尽な出来事に出あうかもしれません。
しかし、それに向きあう前に、親が子どもを守る為に子どもが向き合う機会を奪ってはいけないのです。
不快な環境に子どもが向き合う前に、母親が解決するという事は、
子どもが自分の意見を持ち生きて行く力を奪うことになります。
…という事は…
私たちの人生にも、不快な環境は必要だと言う事です。
理不尽な事が身にふりかかると、
私たちは大騒ぎします。
そして、主に訴えるのです。「主が、どうかして下さい」
…私たちは心のどこかで、このように思っています。
イエスさまを信じたら、困難から解放させてくれたらいいのに。
私は主を信じているのに、なぜこのような事が起こるんだろうか。
主がいるなら…どうして?
私が今、この様な状況にいるのに、主はどうして介入して下さらないんだろう?
どうして私にこの様な事が起こるのだろう…
この困難に何の意味があるんだろう…
主は何を教えたいんだろう…
クリスチャンになったのに、どうして虚しさから解放してくれないんだろう?
幸せだけを感じて生きて行きたい…
私たちの心の中にある、この様な思い…Aくんと同じです。
これを求めるという事は、学ぶべき事を学ばず過ごすという事。
人生で起こる困難、降りかかる問題、理不尽な出来事…
私たち人間に必要なのかもしれません。
もしその様な困難が何もなければ、
私はきっと、主を忘れると思います。
主を仰ぎ見ることをしなくなると思います。
人間は本来、そうではなかったかもしれません。
エデンの園では、何の問題がなくても、主を忘れず仰ぎ見て生きていたと思います。
私たちの中にある罪により、そのような霊的な部分が崩れてしまっているのだと思います。
想像して下さい。
毎日が平和で穏やかで… 何のストレスもなく。
心配もない生活。全てにおいて満たされているのです。
満足しながら生きているのです。
そのような人生に、神は必要でしょうか。
苦難があるから、主を見上げ、主に祈り、主を求めることを思い出すのではないでしょうか。
苦難を通して、そこから引き揚げてくれる主を体験するから、
主を忘れないように信仰生活が出来ているんだと思います。
苦難は、主からの「私を見て…」「私を忘れないで…」という
語りかけかもしれません。