だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
マタイ6:33
信仰生活を送る中、もう何が何か分からなくなることはないですか?
いくつもの問題に囲まれ、祈っても何の変化もなく、
主の御声を聞けるわけでもなく…
反対に状況が悪化する事もあります。
私は何を信じているんだろう…
祈る事に意味があるのだろうか。
祈って何になるんだろう。
周りのクリスチャンたちは、さほど問題なさそうでニコニコしながら過ごしているのに、
自分だけ… 泥沼にはまってしまっているかのよう。
こんな時ってどうしたら良いのでしょうか。
主は何を望まれているのでしょうか。
どうして主は私の全てを知っていると言いながら、何も助けてくれないのでしょうか。
素敵な御言葉は聖書に沢山あるのに、
今の私にはなんの力にもならない…
祈る事に疲れ、祈ることに限界を感じ、全てが無意味に感じる。
信じても信じなくても一緒じゃないか…という思いが頭を過ぎるのです。
私もこのループに何度も陥った事があります。
そして自分なりに、このような状況に陥った時、どうするのが一番良いのか。
どうすれば一番早くこのループから脱出できるのか…
私なりの答えがあります。
祈り方を変えるのです。
ずっと「神さま、どうか助けて下さい。この問題を解決して下さい。道を切り開いて下さい」と祈り続けてもダメな時は、
違う祈り方をするのです。
祈りの一番の鉄則は「感謝する事」です。
思い浮かべることが出来ることを何でもいいので感謝するのです。
今日生きている事。今日もご飯が食べれた事。今日も目覚め一日を過ごせること。
寒さをしのぐ家が与えられている事。夜になると電気を付けれる環境であること。
家族が与えられている事。救われている事。
何でも良いのです。とりあえず(と言っては失礼ですが)感謝を探しまくるのです。
感謝が出来るものが沢山出てくれば来るほど、
本当に感謝だな…と思う気持ちも生じてきます。
辛すぎて何も考えられない時は
「神さま…感謝します」と言う言葉を、何度も何度も繰り返し祈って下さい。
そして、次です。
自分を取り巻く問題は、一旦横に置く事です。
自分の問題について、今までさんざん祈ってきた願いの祈りは、横に置くのです。
つまり、願いの祈りは祈らないのです。
「今まで、沢山の祈りを主の前に捧げました。しかし今からはもうその問題は主にお委ねします。」と
願いを祈る事を辞めるのです。
そして、違う事を祈るのです。
私がもっと主を知っていく事ができます様に。
主と深い交わりを持つ事ができます様に。
主の思いが私の思いとなりますように。
主が私を愛して下さっているように、私ももっともっと隣人を愛する人となれますように。
主が私に語ろうとされている事を、私が気付くことができますように。
主と深い交わりをしたい…
主をもっと近くに感じたい…
主を第一とする者へと変えられたい…
主を私の心の王座に座って頂きたい…
どんな時も主を見上げる者となりたい…
主で満たされたい…
と、主と自分との関係の回復を願う祈りをするのです。
自分がもっと主の近くに行く事ができるように、
もっと主を知ってくことが出来るように。
どんな時も主を見上げ信頼する信仰が与えられるように。
主の御心にあった選択をする事ができるように…
自分が主の似姿に変えられていくように祈るのです。
自分の願いの祈りはせずに…主との関係の回復の祈りをするのです。
よくよく考えてみてください。
苦しい苦しい問題が自分を取り囲み、自分が身動きが取れなくなりました。
祈っても返事がありません。
祈っても返事がないのに、
それ以上、自分がその問題を握りしめても何にもならないのです。
自分で解決できないから、主に祈っているのに、
主は答えてくれない。
それ以上、自分で問題を握りしめても、自分で解決出来ないのです。
何の変化もないのです。
だったら、もう手放しましょう。
自分で握ってもどうも出来ないものを、握り続ける必要はないのです。
自分でどうする事もできないのに、その問題を握り続けると言う行為は、
まだ自分でなんとかしようという思いがあるからなのです。
助けて欲しいという祈りは山ほどしたはずです。
主は聞いておられます。
だから、もうその件は、手を離し
「もう主に任せます」と、主に完璧に委ねるのです。(もう主の好きなようにして下さい…というような思い)
そして、もうその問題たちと自分を切り離し、
主が私に望まれている事を祈るのです。
主は、私たちと密な関係の回復を望まれているのです。
…先日こんな事がありました。
働いている病院の看護師さんで、結婚の準備をしている方が居られます。
結婚するとなると色々とする事があります。
両家へ挨拶から始まり、挙式の手続き、新居選び、などなど。
シフトが一緒になる度に、進捗状況を話してくれます。
そしてある日、色々な事を準備する事に疲れたというのです。
互いの仕事先が離れているので新居をどこにするか、アクセスを考え、この辺りで探したいと言っていました。
場所はある程度絞れたのですが、
マンションの部屋の構造や方角。またベッドはどれがいいか。何色にするか。
お皿一つにしても色々と拘りがあるようです。
結婚式も、何人呼ぶか、食事はどうするか、引き出物は何が良いか悩み続けるのです。
多分… 凄くきちっとされている方で、色んな事が気になるようです。
一回買ったら、なかなか買い替えをしないからよく考えて選ばないと!と思うようです。
そして、それらを一つずつ彼氏に相談するのですが、
彼氏は「細かい事は一人で決めて良いから」と言うようです。
しかし彼女にすれば、選ぶ事に失敗したくないから悩む。
そしてそれを一つずつ相談するのですが、彼氏はなかなか親身になってくれない。
そんな姿にイライラし「彼氏は私と、本当に結婚したいと思ってるの?」と疑問に感じるようです。
そして疲れてしまっていたのでした。
多分… 彼氏の目線で見たら、自分の彼女は「自分と人生を共にしたい」のか「結婚式」がしたいのか。と感じるのではないかと思います。
しっかり考え物を選ぶというのは、一見良い事のように感じます。
しかし、結婚式の細かいことよりも、
「どのような家族になっていくか」
「どのような家族を目指すか」
「どうしたら良い家族関係を続けることが出来るか」を話あう方が大切なのです。
彼女が「どっちのお皿の方がいい?使い勝手とかも考えて。飽きない柄はどっちだろう」と1つ1つを彼氏に言えば、彼氏は疲れてしまいます。
これと少し似ているように感じます。
私たちが、この問題…すっごく難問。大変。どうしたらいい? どうするのが正解? 答えを教えて!と聞き続けるより、
主は、私と主の関係性の方を大切に思われているのではないか…
しかも、主は彼氏ではないのです。
彼氏は問題を解決する力も、失敗しない選択をする能力もありません。
しかし主には力があるのです。
「もう… そんな小さい事は私が何とでも出来る。それよりも、私と話をしないか? 問題ばかりに気がいって、ずっとあなたの目線は下を向いてる。私が横に居ることを忘れていないか? 私を見上げることを忘れていないか?」
信仰の本質は、問題を解決していく事ではないのです。
主が望まれているのは、どの様な時も、主を信じ見上げる信仰なのです。主を愛し、隣人を愛する信仰。
ギュッと握ったものを手放して、横に置いてみてください。
そして主が望まれている事に目を向けて見て下さい。
自然と、問題は解決すると思います!!