あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
ヨハネ15:7
何となく人生が虚しく感じたり、
やる気が出ず、
何に問題があるのか、漠然とした状態。
心に欠乏を覚えたりしませんか?
人との関係もストレスがあり、
仕事にも意欲が持てず、
何とも言えないため息だけが出る時…
何が原因でかも分からず、日々の生活が円滑に進まない…
落胆した状態…
何か同じところをグルグルと回り、
そこからの出口が分からなくなる事ってないですか?
このループに入ってしまうと、
人生は虚しく、生きる意味は何だろう…
生きていく事に意味があるのだろうか。
ダビデが伝道者の書でいう「空の空」という御言葉を思い出し、
人生とはこんなものかと思って見たりもします。
このように感じてしまうにはワケがあるのです。
私たちがエデンの園に住んでいないからです。
言葉を変えると、主から離れて生きているからです。
私たちはキリストに出会い、悔い改め、罪の赦しを得て、神の子とされました。
しかし、私たちが生きている世界は、エデンの園ではなく、この世なのです。
神の子とされる前に生きていた、虚しさばかりを感じていたこの世で私たちは生きて行くのです。
という事は、
誘惑が多い世界で生きているのです。
罪の世界で生きており、主の価値観とはかけ離れた世界に身を置いているのです。
この世では、自分に批判したり、傷つけたりする人とは、距離を置いて生きて行くのが賢い生き方です。
しかし聖書には、キリストが私の罪を赦したように、隣人を赦すように言われています。
また私たちが住むこの世では、成功者と呼ばれる人は、認められ権力や能力、財力などを持ち合わせ人の上に立つ人です。
しかし聖書では、偉くなりたいと思う人は、人に仕える者となりなさいと教えています。
私たちは主に出会う前も、生きる事に疲れたり、虚しく感じる事がありました。
それは主から離れ、本来主が人間に与えられた価値観と違う価値観の世界の中で生きているからです。
もともと私たち人間が満たされる価値観、満足感ではない、違ったもので自分の心を満たそうとするからです。
しかし私たちは、今、主に出会った以降も、以前と同じように疲れ、
虚無感を感じる事があるのです。
それは、私たちが世に流されているからだと思います。
世の価値観では、本当の意味で自分の心や霊が満たされないと分かっていながらも、
手っ取り早く世のもので、自分の心を満たそうとします。
エデンの園を出た時から、
私たちの心には穴が開いているのです。
その穴は、「神の形」をしているとパスカルは言いました。
パスカルの言葉
「人の心の中には、神の形をした空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものによっては埋める事が出来ない」
手っ取り早く、心の空洞にこの世の喜びと感じるもので埋めようとします。
しかし、私たちの内にある空洞と形がピッタリと合わない為、満足を得て満たされる事がないのです。
私たちは、虚しさ、虚無感、欠乏した状態にいる事が苦しく感じます。
生きている意味を失うからです。
私たち、主を知る者も感じる虚無感…
それは、主を知りながらも、心が主から離れてしまっているから生じるんだと思います。
心が主から離れる…
つまり、礼拝、賛美、祈りによって心が満たされていない状態です。
祈りは私たちクリスチャンにとって「呼吸」だと言われています。
呼吸を辞めてしまうと、私たちは酸欠を起こすのです。
つまり… 今感じる虚無感は、酸欠状態なのです。
祈りは何かを願う祈りだけでなく、
祈りを通して主の御心を知っていく必要があるのです。
「神さま。今、このような問題があります。どうか助けて下さい。あなたが私に御手を伸ばして下さり、解決へと導いて下さい。私は、あなたが解決して下さると信じます。イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン」
と、もう解決して下さるという確信の祈りを捧げ…
祈りを終え、さっさと日常に戻るのは…少し残念な感じがします。
祈ったのであれば、主の返事を貰うべき…
祈り終え、そのまま目を閉じ
「主よ。あなたも私に語って下さい。私の心に触れて下さい。主の御心を教えて下さい」と
心を開き、主を待つ時間を習慣を持って下さい。
一方的に祈りを捧げ、主が答えられる前に、私たちはもうその場を離れている事が多いのです。
お祈りは、主を見失ってしまう私たちの心を、もう一度主に向けるチャンスです。
今日の御言葉は昨日と同じです。
あなたがたが私にとどまり、私の言葉があなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
どうしてもこの聖句を読む時、
後半に目がいきます。
欲しいものを求めなさい。それは叶えられる…
叶えられる為に条件が前半に書いてあります。
私たちが主の中に留まるなら…
主の御言葉の中に留まるなら…
祈りを通して、
自分の中心を主に向ける。
祈りを通して、
主の思いが自分の思へと整えられて行くのです。
その時、私たちが望むものは、主の御心にかなったものなのです。
主の御心に叶ったものが、自分が望むものに変えられているのです。
今までのように、私利私欲なものではなく、
もともと主は私たちにとって一番良いものを与えようと思われているのです。
主に整えられる事によって、自分にとって一番良いものが分かって来るのです。
…私たちが感じる「虚しさ」は、主が送られたプレゼントだと思います。
エデンの園に居た時は、この空洞はなかったと思います。
エデンの園を出た時に与えられたんだと思います。
この虚無感があるからこそ、人は主を探すのです。
この虚無感がなかったら、人は本当に神を必要としない… と思いませんか?
今日は、心を落ち着け、
主の御心を自分の心としたい…
主の願いを自分の願いにしたい。と祈ります…
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」