自分の根本的問題を主に求める【使徒3:6-8】

2024年

すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おとり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。

使徒3:6-8

ずっと祈ってる事があります。

期限がある祈り課題なので、ここ数ヶ月は「そろそろ…祈りに答えてもらいたいな~」と思っていました。

そして思いもしない人から連絡があると「え…もしかして!」と期待してしまうのです(笑)

その人を通して与えられるのか、主の道が開かれるのか…と、期待。

しかし殆ど「今、辛い中にあって…祈って欲しい」という連絡です。

クリスチャンあるあるかもしれません。

どうしても、自分の想像できる範囲でしか物事を考える事が出来ず、

期待しては、「違った…(笑)」というのが何度かありました。

そんな自分が、今日の聖書の箇所に出てくる「美しの門」に座っている足の悪い人と重なりました。

生まれつき足が悪い男性。

働く事も出来ず、宮に来る人々の「施し」を求めて、毎日座っていたのです。

そして宮に入って来たペテロとパウロが、その男性を見つめた時、

男性は「何か貰える」と期待したのです。

しかし、男性が期待したものはもらえませんでした。

男性が期待したもの。

生活費や食べ物、着るもの…位ではないでしょうか。

彼は生まれた時から歩けなかったのです。

歩いた事がない彼は「歩きたい」という希望さえ持てなかったのです。

彼の一番の解決したい悩みは、足が癒される事だと思います。

足が癒され、自分で働き、自分で食べていく…

しかし、彼は誰かに「癒して下さい」と求める事は(多分)なく、

足が不自由 → 働けない → 生活できない → 施しを求めよう

と考えたんだと思います。

足が癒されたい。ではなく

もしくは足が不自由でも、働ける仕事が欲しい。でもなく

生活が出来ないから、少しでも食べる事が出来るように「施し」を求めていたのです。

彼の中に、根本である「足の癒し」を求めず、「仕事」を求めず…

最終手段だけを求めたのです。

どうしてでしょうか。

足の癒しも、仕事を持つ事も、不可能だと考えたからです。

それは彼だけでなく、彼の両親もそう考えたかもしれません。

毎日、彼を美しの門に連れて来ていた人が家族なのかどうかは分かりませんが、その手助けしている人も、彼には可能性がなく、

施ししか道はないと考えたのです。

ペテロとパウロが

「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言い、

「彼の右手を取って立たせた」と記録されています。

「立ちなさい」と言われても、自分が立つことが出来るという想像さえしたことがない彼は、

パウロたちの言葉に、ピンとこなかったのではないでしょうか。

彼の右手を取って立たせたとあります。

「立ちなさい」と言われても、立ち上がろうとしない彼を見て、パウロたちは手を貸し立たせたのです。

そして、自分が立てる、歩ける、跳ねる事さえ出来ると知ったのです。

私たちは、自分の想像の範囲内で物事を考えてしまいます。

想像の枠を超えると、与えられても与えられていると分からないのです。

彼は、自分の根本的問題に目を向ける事が出来ず、

目の前の問題… 「今日の食事」に心が奪われていたのです。

自分が求めている「今日の食事」以外のものが与えられた時、

気付かずにスルーしてしまう可能性があるという事です。

この話を読み直しながら、

自分の目の前にある問題に心を奪われず、

根本的に求めるべきものを、考え直したいと思いました。

自分で主の能力を小さく見積もってはいけない…

自分で、「これは流石に主にも無理!」と勝手に主の御力を小さくしない…

また同時に、

私たちは主に何を頂いてるだろうか。

一次的な満たし、一時的な癒しだけでなく、

人間の根本的問題…

「死」と「罪」の問題において、

もう既に解決して下さっているという事を分かっているようで忘れがち…

これこそが、人間の根本的問題であり、自分の限界を超える問題。

主にしか解決でいない問題を、もう既に解決して下さっており、

既に、永遠の命が約束されているのです。

分かっているようで… 忘れがち。

今日は、主に頂いているものを感謝しながら過ごしたいと思います。

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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