そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
ヨハネ4:6-7
イエスさまはエルサレムからガリラヤに帰られる道中、
一般的に歩くルートとは違い、イエスさまはサマリヤを通って行かれました。
ユダヤ人は、ユダヤ人と異邦人のハーフであるサマリヤ人に出会いたくなかったようです。
聖書を見ると、「サマリヤを通って行かなければならなかった」と書かれています。
イエスさまは、わざとサマリヤを通られた事が分かります。
イエスさまはサマリヤの女の人に会いに行かれたのです。
ここに出てくるサマリヤの女性は、離婚経験が5回ありました。
井戸というのは、当時はおしゃべりの場であり、人との出会いの場。
ちょっとした楽しみの場だったにも関わらず、
人目を避け、誰も居ない時間帯を狙って、水を汲みに来る女性が居たのを主はご存知だったのです。
人の目からみて、彼女は罪多い人間だったのです。
人に後ろ指をさされながらも、それでも彼女は同棲している人が居るというのは、
彼女は切に男性に対して自分の幸せを求めて生きていたんだろうな…
彼女は幸せな家庭で育っていなかったのかもしれない…
愛情を貰えず育ったのかもしれない…と想像してしまいます。
間違った愛情を求め、罪を重ねる彼女のもとにイエスさまは、会いに行って下さったのです。
しかも、彼女より先に井戸に行かれ、彼女が来るのを待っておられたのです。
「私に水を飲ませて下さい」と声をかけられました。
このイエスさまの会話から改めて、イエスさまの愛の深さを感じました。
イエスさまは、罪人を裁くために来られたのではなく…
罪を指摘し、強制的に正そうとするのではない…
初めて彼女に声をかけられる時「お願い」をしたのです。
自分が弱い立場に立たれ、声をかけられたのです!
しかもユダヤ人の男性がサマリヤ人の女性に。
当時は声をかけることは、あり得ない事だそうです。
主は低くなられた。そして罪人にお願いまでされたのです。
本当に喉が渇いていたのかもしれません。
だったとしたら「水を汲みなさい」といっても良いのではないか…
身分を考慮せず、神の子であられる方が罪人に低くなられたのです。
今日の御言葉に、ハッとしました。
私はなんて高慢なんだろう…
主は、彼女の心を癒そうと、この様に謙遜に低くなられ働かれているのに…
私はどのような態度で隣人と接しているだろう…
主の目的は、このサマリヤの女性を癒し、あなたがずっと探し求めている生ける水があるという事。それを与える。という事が目的なのです。
私は隣人にどのような目的をもって会っているんだろう…
人と会う時、人と言葉を交わす時、
隣人と接する時、自分の目的を持たないと…!
この人が救われるように。
この人が癒されるように。
このような目的をもって接するべき。
このような目的を意識しないで会うと…
目の前の人に対して、私は相手の人に対して、その人自身の間違いに気付かそうとしてしまうと思います。
それはある面、「あなたは間違えているよ!」と、私が人を裁いているのです。
主は人を裁くために来られたのではなく、
人を癒し救いの道を開かれる為に来られた。
私たちも、隣人に対して救いの道があると伝え、
主のもとに導くために存在するべき…
少しでも主の似姿に近付けるように…
今日も、主がされたように、隣人と接する事ができますように!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」