ヤコブはファラオを祝福し、ファラオの前から立ち去った。
創世記47:10
ヨセフの父であるヤコブ。
ヨセフの兄弟とその家族と家畜が全て、ヨセフがいるエジプトに来ました。
ヨセフはヤコブに会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けたと記録されています。
そしてヨセフはファラオに挨拶に行く前に、家族に向かって話をしたのです。
もしファラオに職業は何かと聞かれたら、
『私たちは、先祖の時代から家畜を飼う者です』と答えるようにとアドバイスしたのです。
そしてヨセフは、
『そのように言えば、私たちはゴシェンに住める。羊を飼う者は全て、エジプト人が嫌っているから』と言ったのです。
ちょっと不思議ではないですか?
私がヨセフなら…ちょっと恥ずかしく思ってしまうと思います。
ヨセフはエジプトで王も認める実力者。奴隷からエリートになったのです。
また、国を司る能力あるリーダーなのです。
その誰もに認められているヨセフの実家が、エジプトでは忌み嫌われる職業なのです。
普通であれば、恥ずかしく隠したい実家ではないでしょうか。
でもヨセフは「エジプトでは羊を飼う者は嫌われているから、先祖代々、羊を飼う仕事をしてると言って!」と言ったのです。
どうしてでしょうか。
ゴシェンに住む為です。
確実に、ファラオの口から ‟ゴシェンで住む許可を得る” 為に、念を押して牧者であると言うように言ったのです。
ヨセフがゴシェンにこだわった理由は、
自分達はアブラハム契約を得た民族であるから。
エジプトに文化も血も混ざらないように、独立した場所に身を置きたかったのです。
自分の実家、ルーツが嫌われている職業だという事に、ためらいを感じる私の目は「人の目」なのです。
ヨセフは「霊の目」で見て、わざと嫌われている職業を言うように言ったのです。
霊の目、神の目でこの世を見ると…
‟嫌われる” という事も、主は用いられるのです…
嫌われ、人から軽視される職業だという事までも、主は用いられるのです。
という事は、
自分が人から、嫌われたり、軽視されている事は必ずしも、マイナスではないかもしれません…
そこに主の計画があるかもしれないという事です!!
…また、聖書を読み続け、改めて驚いた事がありました。
ヨセフは兄弟5人を連れ、ファラオに挨拶に行きました。
そしてヨセフが考えた通り、ファラオは「職業」について質問し、兄弟たちはヨセフに聞いた通り答え、
ファラオの口から、ゴシェン(ラメセス)に住むようにという許可を得る事ができました。
そして次に、ヨセフは父ヤコブを連れて行きました。
当時のエジプト人は短命だったようです。
それに比べ、ヤコブは当時130歳!
ファラオはその姿に驚いたんだと思います。
そしてヤコブに何歳なのか聞いたのです。
この時、ヤコブがファラオを「祝福した」と記録されています!
ファラオ王がヤコブを祝福したのではなく、
ヤコブがファラオ王を祝福したのです…
これも不思議ではないでしょうか。
ファラオは、エジプトの王です。
言わば、世界のトップです。
かたやヨセフは、牧者なのです。
エジプトでは忌み嫌われる職業を先祖代々、受け継いで来た
驚くほど年老いたおじいさんなのです。
簡単に言えば、天と地の差があるような身分の2人が出会い、
世の中的には軽視されている人が、世界のリーダーを祝福したのです。
人の目には、逆ではないでしょうか。
ファラオがヤコブに、このエジプトで安らかに過ごせるように…と祝福しても良さそうです。
ファラオは、自分が信じている神より、
ヨセフが信じている神の偉大さを感じていたからだと思います。
人間的な目で見れば、ヤコブがファラオを祝福するとは、失礼極まりない話です。
しかし霊的な目で見れば、ファラオも祝福を受ける立場だと感じたのではないでしょうか。
…これは、私たちも覚えておかないといけない事だと思いました。
私たちは、自分の目に入るもので直ぐ判断してしまいます。
「あ… 偉い立場の人…」と感じ、自分を小さくしてしまう事があると思います。
しかし今日学ぶ事は、私たちは「霊的な目」で世の中を見ないといけない…
神の子である私たちは、主の名で祝福をすることが出来るのです。
出来るというより、祝福するべき立場であり、主に与えられた特権です。
相手の立場や身分に、自分が自ら下に下がっていく必要はない…
もちろん、偉そうにする事とは違いますが…
神の子らしく、私たちに与えられている特権を使命として、隣人を祝福していくべきなのです。
今日も、出会う人を祝福する一日となりますように!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」