彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。マルコ10:16-48
私は、聖地旅行に行けたら、是非行ってみたい所があります。
時折、イエスさまが行かれた「寂しい所」です。
朝早く、イエスさまが1人祈る為に行かれた「寂しい所」
押し寄せる群衆から離れ向かわれた「寂しい所」
イエスさまが、天の父に祈った空間に行ってみたい!とずっと思っていました。
信仰を持ち始めた20代からずっと…
そんな思いと同時に、当時は疑問もありました。
何となく、イエスさまがは、押し寄せる群衆に疲れ、寂しい所で一人になり、天の父に祈る事によって新たに力を得ていやしや宣教を行なっていると思っていました。
聖書を読むと「おびただしい群衆が押し寄せ」と書かれている所もあります。(マルコ3:8)
イエスさまのもとに集まった人たちはどの様な人達だったのでしょう。
いやしを求めて集まった人たち。
噂を聞いて一目見ようと集まった人たち。
どこかイエスさまを陥れる事が出来ないか機会を伺って集まった人達…
そのような目的が違う人達が大勢…
おびただしい群衆だったのです。
にも拘らず、
「耳が聞こえず、口のきけない人」が癒しを求めた時、
イエスさまは、その人だけを群集の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられ、
そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「聞け」と言われ、
すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。(マルコ7:32-35)
…イエスさま、いやしに時間かけ過ぎ…と思っていました💦
相手は群衆。いやしを求めて沢山の人が押し寄せたのに。
もちろん「1人1人と向き合う」という事を大切にして下さる主。
しかし、主は言葉一つでいやす事が出来るはず。
どうして、言葉一つでいやしを求め集まった人を一度でいやす事をどうしてされなかったんだろう。
1人に時間をかけるから… 疲れる…
盲人の物乞いのバルテマイ(マルコ10:46~)も、イエスさまの噂を聞き、
通りすがりのイエスさまに大声でいやしを求めました。
するとイエスさまは「わたしに何をしてほしいのか」と聞いたのです。
質問しなくても分かるハズ…
この質問いるかな…と思っていました。
盲人は「先生。目が見えるようになることです」と答え
主は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と答えました。
主はその人の信仰を見られる。
私たちは「いやされたい!!」という思いが大きいけれど、
主は、いやしも大切だろうけれど、それ以上に大切なものは「信仰」。
今日、もう一度読んで見て思った事は、
バルテマイは、イエスさまがどこにいるのか分からず、
「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたのに、
彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた…
大勢の人がたしなめた…
バルテマイを阻止しようと止めに入る人が多かったのです。
ここの箇所から、私たちが学ぶべき事があるように思いました。
クリスチャンが陥りやすいつまずきというか、
私たちの信仰の基準というか態度です。
教会に居れば「〇〇に傷付けられた」「〇〇につまづいた」と
主以外を理由に、教会を去ったり、信仰から離れる姿を目にします。
私たちが見るのは、群衆の先にいる主。
目の前の群衆が邪魔をしたり、たしなめに来たとしても、
それを理由に信仰の影響を受けてはいけない…。
バルテマイは、多くの人の阻止が入った時、「ますます叫んだ」のです。
バルテマイが、「自分は主に出会いたかったけれど、多くの人に阻止されたから…」という理由で、主を呼び求める事を諦めていたら、
バルテマイはいやしを得る事は出来なかったのです。
この時、主と出会う事も出来なかったのです。
主の御業を体験する事も出来なかったし、
人生を変える事も出来なかった…
今日は、このバルテマイの信仰を記憶しよう…と思いました。
私たちは、信仰生活を送る中、信仰を阻害するものに出会います。
それは主から来たものか、
私は今、何処に目を向けているのか、
立ち止まり考え、
今日も、正しいものを選べる者になりますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」