私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。Ⅱコリント4:7-8
どの様な人生を歩みたいと思いますか。
誰かを見て「あ~ 自分もあのようなクリスチャンだったら…」とか思ったりしませんか。
もしくは、今の自分から新しい一歩を踏み出す事ができたら…自分の人生が良くなるのに。
その様な「今よりもっと!」という思いを持っている人は多いと思います。
もしくは、もう今の自分にうんざりし、どうにか今の自分から抜け出そうと願ったり…
どちらにしろ、自分の願い通りの人生を歩む事も、今よりも一歩踏み出す事も…簡単なことではありません。
頑張って変わろうとしても、思うようにいかず… 出来ない自分がもっと嫌になったり。
願い通りになれない事へのジレンマに疲れてしまうのです。
そして徐々に、諦めの思いが生じ「どうせ自分は…」というネガティブなマイナス思考が発動します。
志を持てば、出来ない自分の現実に嫌気だけが残ったりします。
カトリック教会の司教であり「最大の教師」と呼ばれた、アウグスティヌスの「魂の家」という祈りの言葉があります。
「主よ、わたしの魂の家はとても狭いのです。
どうか広くしてください。
あなたがお入りになれるように。
わたしの魂は荒れ果てています。
どうか修理してください。
わたしの魂の家はあなたの目に、どんなにか醜く映ることでしょう。
わたしは、自分の魂の醜さを知っています。
それをきよめてくださるのは、主よ、あなたお一人です。
隠れた罪から、わたしをきよめてください。
自分でも知らない罪から、あなたの僕を救ってください。」
これを読んだ時、「なるほど…」と思いました。
私たちは「魂の家」を持っているというのです。
その自分の魂の家がキレイに整理整頓されているのか、
荒れ放題の状態なのか
私の魂の家…
荒れ果てています💦
常に「あれも、これも、しないと!」「あ… あれするの忘れてる」と何かをしながらも、
次から次へとしないといけない事が思い浮かぶのです。
そうなると、一つ一つが十分に手が回らず、
何かをしていても、心が別の所にあったり…
私の魂の家は、散らかっています💦
自分の魂の家が狭く、荒れ果て、醜くい原因は「罪」だと言っています。
確かに…
自分の魂の家に、罪が存在すると、魂に安らぎがあるハズがない…
私たちは、多かれ少なかれ、このように自分の魂の家が荒れ果てた状態で、
今より良い変化を求めるても、平安な毎日を求めても… 上手くいかないのです。
しかも、魂の家には自分の知らない罪まである…
罪は自分で解決する事はできません。
「わたしの魂は荒れ果てています。どうか修理してください」とあります。
修理して下さい…
私たちの魂の家は、罪により荒れ果て、壊れかけているように感じます。
確かに…
私の心の魂の家は、色々なことで埋もれ整理が出来ていません。
荒れ果て全てが空回りのような状態だと気付きました。
自分で魂の家を広くし、主に入って頂き、整理された家を持てるように祈り求める必要があるのです。
自分の魂の家を整え、広く持ちたい。
主に入って頂き、王座に座って頂きたい。
日々、修理をして頂き、罪から守って頂きたい!!
今日は、主の前に跪いて賛美をし、祈りの時間を持とうと思います。
賛美をして、疲れた心を涙で洗い流したい…
もう一度、立ち止まり、自分の罪の赦しと、心の修理を願います。
今日も、主の平安の中を歩む一日をお過ごしください!
「主よ。あの土地を私たち(LOVE BIBLE)に与えて下さい!」