こういうわけで、いつまでものこるものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
Ⅰコリント13:13
先日、実家に行きました。
実家にはもう誰も住んでいないので、時々家に行って窓を開け、風を通したり掃除をしたり。
そして父親の本棚を整理していると「日野原重明さん」の本が何冊かありました。
私の亡き父親が尊敬する人の内の1人です。
クリスチャンのお医者さんで、生涯現役のお医者さんでした。
父親が日野原重明さんの話を時々してくれたり、テレビに出演されている録画を一緒に見たりしていました。
「あ… 懐かしい…」と思いながら、思い出した話があります。
日野原重明さんが、命の尊さを子どもに伝える為に小学校に訪問した時、この様な質問を子どもたちにされるそうです。
「君たち、命を持っているだろう。命はどこにあるの?」
子どもたちは、胸のあたりを指して「ここにあります」と答えます。
日野原さんは「これは心臓だよ。心臓はモーターなんだ。命を支えるのには必要だけれども、ここに命があるわけじゃない。じゃ、命そのものはどこにあると思う?」と問い返すそうです。
日野原さん、いわく
「命は目に見えないもの」であり、
「命とは君が持っていて、君が使うことのできる時間のこと」
「君がしたいように出来るもの、それが君が持っている命だよ」と教えるそうです。
そうすると、子どもなりに理解を示すそうです。
そして「じゃ、自分らしく命を使うとはどういう事なんだろう」という宿題を出すそうです。
子どもたちは、自分の為だけに時間を使っていた事に気付き、反省し、誰かの為に何かをしないと…と考え始めるそうです。
命がどこにあるのか… 難しい質問ですよね。
確かに、命そのものが身体のどこかにある訳ではなく…
目に見えたり姿形がある訳ではない。
命が尽きると自分の人生が終わるので、
命とは「人生」という言葉に置き換えれるようにも思います。
ということは、やはり命とは「私に与えらえた時間」ではないか…
と改めて考える時間となりました。
日野原さんが子どもに出された宿題「自分らしく命を使うとはどういう事?」という問い。
与えられた命を、私はどの様に使っているんだろう…
自分の人生を何に使って来たのか。これから何に使うのか…
大抵の時間は、自分の為、自分の家族の為…
自分にとって良い選択をし、目の前の出来事や色んな事を天秤にかけ、自分にとって益となるような選択をしてきました。
自分の命には決められた時間があります。
私たちは、どのように生きて行くべきなのでしょうか。
私たちにとって大切なもの
信仰と希望と愛です。
そして、その中で一番すぐれているのは愛だという御言葉があります。
聖書のいう「愛」とは、何だろう…
私たちの神は、愛なのです。
私たちの神… 十字架の愛。
聖書のいう「愛」とは「ゆるし」なのかも…
「愛」=「ゆるし」なのかどうかは分かりませんが。
キリストの愛は、「ゆるし」を伴う「愛」です。
「愛」は「ゆるし」と、切っても切れない関係だと思います。
主が私を赦して下さったように、私も人を愛し、ゆるしていく生き方が、豊かな生き方なのかも。
日野原さんの宿題「自分らしく命を使うとはどういう事?」
私らしく、キリスト者らしく、神の子らしく、命を使う。
私は自分の人生(命)を、人を愛し、ゆるしていく生き方をしたいな…と思いました。
主にあって、豊かな命の使い方をすることができますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」