イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
マルコ9:19-24
今日の聖書の箇所は、
幼い時から悪霊に取りつかれた子の父親が、イエスさまの元に来て悪霊を追い出して欲しいと話す場面です。
まず、この父親は弟子たちのもとに行き、悪霊の追い出しを願いましたが、弟子たちは悪霊を追い出す事が出来なかったようです。
そして、イエスさまが「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われました。
改めてこの個所を読んで父親のセリフが心に留まりました。
父親はイエスさまに
「もし、お出来になるものなら、私たちをあわれんでお助けください」と言ったのです。
今までの癒しを求める箇所を読むと、
群衆を掻き分けイエスさまの元にひれ伏し「ダビデの子よ。私を憐れんで下さい。癒して下さい」と言いそうではないですか?
それが、、「もしお出来になるものなら…」
父親は「できるなら、癒して下さい」と言っているのです。
それに対して主は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
父親は「信じます。不信仰な私をお助けください。」と叫びました。
この部分も違和感があります。
父親は「信じます!!だから助けて下さい!!」とは言わなかったのです。
父親は信じ切れていなかったのが分かります。
絶対にイエスさまに癒して頂ける!!という信仰があったのではないのです。
「できるなら、癒して欲しい…」
「信じます。でも信じ切れていない私を許して下さい…」
多分、幼い時から霊的解放を求めながらも、癒される事がなく心に傷があったのかもしれません。
癒しとは反対に、癒しを利用し騙されていたかもしれません。
人の弱みに付け込んで、自分の欲を満たそうとする人間の姿に傷ついて来たかもしれません。
幼い我が子を連れ、懸命に求めれば求めるほど、落胆や挫折、裏切りを経験したかもしれません。
だから、「できれば」という言葉が出たのではないかと思います。
余り期待し過ぎてはいけない…
また傷つくかもしれない…
また利用されるかもしれない…
傷が多すぎて、期待する事に恐れを持っていたのではないでしょうか。
主は、この父親の「できれば」という言葉をスルーしませんでした。
父親に対して、奇跡を行って終わる関係を持つのではなく、
信仰を持てるように導かれたのです。
「信じる者には何でもできる」という信仰を持つ事が出来るように、主は父親に手を差し伸ばされ、招かれたのです。
父親はその言葉を聞いて「信じます!」と答え、続けて
「信仰のないわたしをお助けください」と正直に言ったのです。
「信じます! でも…信じ切る事が出来ない私を助けて下さい!」と。
この父親は本当に正直者です。
口先だけで「信じます!信じます!だから早く癒して下さい!」とは言わなかったのです。
主の問いかけを通して、自分の信仰を見直したのです。
この父親の姿は私たちの姿でもあります。
色々な思いが重なり、信じたいけれど、信じ切る事ができない…
主を信じると信仰告白をしたクリスチャンであっても、信じる事が出来ない状況に陥る場合があります。
私たちには弱さと罪があるからです。
幾度も、このような状況に陥ったとしても、
信じ切れない自分に、立ち止まるのではなく、
この父親のように「信じます。信じ切る事が出来ない私を許して下さい」と祈り進むのです。
この様に信仰を重ねていくのです。
「信じます。直ぐに揺れ動いてしまう私を赦して下さい」
「直ぐに疑ってしまう私を赦して下さい」
正直な姿で、主に依り頼むのです。
自分の信仰に落胆し、立ち止まらず、「信仰を重ねる」という事を選択する事ができますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」