みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
Ⅱテモテ4:2
ピリピ人への手紙は、パウロが獄中から書いた手紙です。
自分は捕まり獄中に入れられ、これから先、自分の身に何が起こるのか分からない状況に置かれていたのです。
ピリピの手紙の始まりを見て驚きます。
その様な人が書いたとは思えない始まりです。
ピリピの人たちへの平安の祈りから始まり、ピリピの人たちの苦しみを労い、励ましているのです。
もし私が無実の罪で牢獄されたら…
大騒ぎをします。
出来る限りの方法で、一人でも多くの人に祈ってもらえるように願うはずです。
「私が解放されるように。正しい事実が知られるようにと祈って欲しい!!」と。
私なら今ある状況が理不尽過ぎて、主に助けて下さりという弱々しい祈りと、文句の祈りと、混ぜ合わせた祈りをすると思います。
「今、自分を取り巻く環境、自分が置かれている状況が良いものではない」と私は判断するからです。
だから、少しでも早く、正常な環境に身を置きたいのです。
自分にとって不便な不快な環境を早く取り除きたい…
以前の環境が正常なもので、今の環境は非常事態!
以前の環境に戻るようにと祈り求めるのです。
しかし、ピリピ書を読むと、パウロは自分の状況に気を留めていないのが分かります。
パウロは伝道すると言う自由が奪われても、「解放を求め、自由に伝道出来る状態」に戻る事を求めませんでした。
不思議ですよね。
ピリピ書を読むと、獄中にいる人が送った手紙ではなく、豊かな状態で落ち着いた環境のなか、書いたような手紙…
パウロにとって、自由に伝道出来る環境も、身を拘束される環境も同じなんだと思います。
パウロは、この獄中から早く解放される事を望んでいません。(留まる事も望んでいません)
まるで、次の宣教地に来たような感じです。
自分の置かれた環境に左右されていません。
私がこのような状態であれば、ポジティブに今ある環境を受け止めたとしても、
牢獄から出た後の計画を考えると思います。
ポジティブに受け止めたとして、「今は次の宣教について祈り考える時間」…と受け止めるような気がします。
環境に左右されない信仰。
良い環境では、その中で出来る伝道をし、
悪い環境でも、その中で出来る伝道をする。
時が良くても悪くても…ですね。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(Ⅱテモテ4:2)」
環境、時代、置かれた状況を言い訳にせず、その場で出来る伝道をする。
今置かれた場所でするべき事がある。
今置かれた場所で、出会うべき人が居て、福音を伝える人がいる。
今置かれた場所で、とりなすべき人が居る。
直ぐに、自分を安全な場所に戻す事を求めず、「今ある場で主が私に何を望まれているのか」を考える。
パウロは福音に生き、いつも溢れる喜びを持っていました。
そして、この喜びが彼を支える力となったのです。
ということは、私たちも自分の居場所や環境に左右されず、主からの溢れる喜びを感じ生きていく事が出来るという事です。
私の今置かれている状況と環境…
まず感謝し、今しか出来ない事をしていきたいです!
今日も、主と共に歩み、今、自分にしかできない御心を行なえますように!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」