私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。
ホセア6:3
次男は、教会から帰って来て
「今日の礼拝凄く良かった! お母さんもメッセージ聞いてみて! スッゴク恵まれた!」とよく言います。
「へー良かったね~!」と言うと、「絶対(YouTubeで)聞いてみて!」と仕切りに言います。
私は、あ…ちょっと疲れてるんだけどな~、途中で寝てしまうかも…と思いつつ、
次男と御言葉を分かち合う良い機会になるとも思い、
聞くようにしています。
そして案の定、途中で寝てしまっているのです💦
礼拝途中で目が覚め、もう一度聞き直すのですが、なかなか頭にメッセージが入ってきません💦
また、時には最後まで聞いたにも関わらず、
次男のように感動はなく、「普通によかった」という感想を持つ時もあります。
次男は学校から帰って来て「聞いた?どうだった?」と聞くのですが、
「なんか、頭に入って来なかった💦」とか「良かったよー」と言うと、
「え…💦 スッゴク良いのに!!」と言われる事があります。
そうなんです。
前々から気付いていたのですが、
次男と、このような会話を何度もするうちに、
ハッキリと気付いたのです。
同じメッセージを聞いても、感動する人もいれば、何も感じない人もいるのです。反対に、イマイチだったと思う人もいるのです。
聖書を見ても同じような話があります。
ペテロは熱心に福音を伝え悔い改めを促した時、3000人ほど集まっていた人々は、心を刺されて、「私たちはどうしたら良いでしょうか?」と言いました。(使徒2:37)
福音が、心理の言葉が、人々の心を打ち、悔い改めに導き、洗礼を受け、救いを授かったのです。
反対に、
ステパノが大胆に主の福音を伝えた時…
「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。(使徒7:54)」
とあります。
ある人達は、福音に心を刺され、救われました。
しかしある人達は、同じ福音を聞いても、はらわたが煮え返り歯ぎしりし、怒りに燃えてステパノを殺してしまいました。
…聞く方の心の状態の差です。
福音を聞く者の心の状態によって、反応が違って来るのです。
これは、私たちにも言えることです。
同じメッセージを聞いても一生忘れられないメッセージにもなるし、
礼拝が終わり教会を出るころには、もう余り記憶に残っていない場合もあります💦
主の福音を聞いて、御言葉を聞いて、心刺されているでしょうか。
メッセージに対して、どの様に反応出来ているでしょうか。
どの様に応答出来ているでしょうか。
次男は、飢え渇きの心でメッセージを聞き、
私は、次男に勧められても、ちょっとしんどいんだけどな…という思いでメッセージを聞いているのです。
そして、私は浅はかな考えを持って、
「今日のメッセージは良い」「今日のメッセージはイマイチ」と評価してしまうのです。
自分の心の状態に目を向けず、審査委員のようになっているのです。(私)
無意識であっても、審査委員となっている私の心には、謙遜さがないのです。
主から御言葉を頂きたい…という切なる思いを、直ぐに忘れてしまうのです💦
悔い改め、謙遜な心で主を求めよう…
礼拝の審査委員なんて…恐ろしい…
礼拝前は、本当に心を落ち着かせ、主をもっと知りたい!!という、飢え渇きをもって礼拝を捧げよう。
と反省した一日でした。
今日も、主を求めて生きましょう!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」