そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたづねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
マタイ25:34-40
今日の聖書の箇所を改めて読んで驚きました。
私たちは、「神さま」という存在を考えた時、どの様な方だと想像しやすいでしょうか?
困った時に助けてくれ、私たちを導いてくれる方、願いを聞いて下さる方、力強い方、癒す事が出来る方…
神とはこういうお方だろうという神像が色々あると思います。
私はキリスト教の神は、一般的に私たちが考える神像とは違うなと思っていました。
神の子どもが、神の権威を捨て人間として生まれたり、
神の子どもなのに、立派な場所で生まれるのではなく、馬小屋で生まれたり、
神の子どもなのに、一番苦しく惨めな十字架刑で死にました。
そして、私たち罪人が自分の罪の為に裁かれ死ぬのではなく、
神の子が代わりに死んだのです。
神の為に人間が死ぬのではなく、人間の為に神の子が死んだのです。
一般的に想像する神像とは真逆です。
そして、今日の御言葉の部分でも「真逆の神さま」を見つけました。
私たちが空腹な時に食物を与えてくれたのが神さまではなく、
神さまが飢えた人でした。
喉が渇いた時に、水を与えてくれたのが神さまではなく、
神さまが喉が渇いた人だったのです。
旅人であった私に宿を貸してくれたのが、神さまだったのではなく、
神さまが宿が無かったのです。
また、着るものがない私に着物を与えてくれたのが神さまではなく、
神さまが着るものがなかったのです。
私が病気であった時、神さまが見舞いに来てくれたのではなく、
神さまが病気だったのです。
私が牢獄に囚われた時、私の元を訪ねてくれたのが神さまではなく、
神さまが牢獄に囚われていたのです。
これは、どういう事でしょうか…
神さまとしての強さとはかけ離れており、弱く感じます。
私たちの弱さに神さまが存在するという意味だと思います。
主は豊かさの中に存在するのではなく、
貧しく弱い者の中に共に存在するのです。
マザーテレサのように、弱い者、困難な者、病の者に寄り添う時、
私たちは、弱い者の中に主の姿を見る事が出来るのです。
多くの人は、弱い人を助けてあげる姿、マザーテレサをみて「神のようだ…」と、神の姿を重ねてしまいます。
しかし、マザーテレサは、助けている自分が神ではなく、弱い人の姿を通して神の姿をみたのです。
自分は不自由がない豊かさの中に身を置き、安心し満足していては、主の姿を感じられないのだと思います。
貧しさの中にいる主。
貧しいものと共に居られる主。
私は、まだ主に出会っていないかもしれない…
そう語っておられる御言葉だと思いました。
自分の安全、安心を求めすぎず、弱い人、困難な人、病で苦しむ人に目と心を向けるべき…
今日の聖書の箇所は、もっと黙想が必要だとも思います。
私たちの神さまと言う概念とは、真逆であるキリスト。
私はまだまだ、貧しさの中にいるキリストに出会えていません。
自分に出来る事、主が私に望まれている事を黙想したいと思います。
今日も、主と共に歩み、知らなかった主の姿を発見できますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」