神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
Ⅰテモテ2:4
私たちは、主に呼ばれイエスさまを信じる事ができました。
この世には「救われる人」と「救われない人」がいるのでしょうか。
どう思われますか?
旧約聖書を見ると、神さまがイスラエルの民を大切にされ愛されているのが分かります。
どうしてイスラエルを選び、他の国の民を選ばなかったのでしょうか。
聖書を読むと、初めからイスラエルを選ばれた民としていた訳ではありません。
創世記の12章を見ると、
まず、主はアブラハムを選んでいるのです。
「あなたの生まれ故郷を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたの名は祝福となる。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と言われました。
主は、イスラエルの民を選んだのではなく、アブラハムを選んだのです。
アブラハムからイサク、ヤコブと続き、イスラエル民族へとなっていったのです。
どうしてアブラハムを選ばれたのでしょうか。
聖書には書いていませんが、
もしかしたら、アブラハム以外にも、同じような事を他の人にも言われたかもしれません。
自分がいる土地を離れ、約束の地に向かいなさい。と。
そしてそれに従順できたのがアブラハムだけだったかもしれません(勝手な私の想像です)
アブラハムを選んだ明確な理由は書かれていませんが、
分かる事だけから考えると、
主は、すでに存在する「強く立派な民」を選ばれたのではないのです。
主が、アブラハムが選ばれた時は、アブラハムの信仰が凄く良かったわけではないと思います。
約束の地に向かう道中、何度もアブラハムは失敗を繰り返しています。
何度も失敗を繰り返し、イサクを捧げるまでの信仰へと成長していく姿を聖書から見受けられます。
その点を考えると、アブラハムの信仰は立派ではなかったけれど、
アブラハムは「故郷を離れ、カナンの地に行きなさい」という主の言葉に、
「何故ですか?」「数日待ってください」などとは言わず、
直ぐに従順する心を持っていたのです。
私は、アブラハムの小さな信仰でも、主に従順する心を持つ者を主が選ばれたのではないかと思います。
アブラハムの信仰が素晴らしいから、偉大な人物だから、ではないのです。
アブラハムを「誰よりも偉い者」として選ばれたのではないのです。
アブラハムが他の人を「祝福」を分け与える存在となる為に選ばれたのです。
私たちも同じです。
まず私たちが選ばれ、救いという恵みを頂いたのです。
私たちが立派な人物だからではなく、有名だからでもなく、何かが出来るからでもないのです。
アブラハム同様、
弱い私たちですが、自分の周りの沢山の人に「主の祝福を分け与える為」に、主が私を選ばれたのです。
私たちの信仰が成長する為…
私たちが祝福を流す為…
新約聖書を見ても、イエスさまが弟子たちを選ぶ時、漁をしていたペテロとアンデレに声を掛けられ、
2人はその場に網をおいてイエスさまに付いて行ったのです。
その時の網や舟は財産です。
これからどのような歩みになるのか、どの様な生活をするのか、給料は発生するのか、何も分かっていません
でもペテロやアンデレは従う事を選ぶ心を持っていたのです。
主は、この人は救ったけれど、あの人は救わない。というような方ではないのです。
良く分からないけれど、従う…が重要なのです。
主に選ばれた私たちは、選んでもらった理由通りの存在をしなければけません。
主は、今日も私を選び、私を通して主の祝福を流す事を望まれています!
主は全ての人が救われる事を望まれています。
主に用いられる者となりますように…
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」