主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。
申命記6:18
私たちは皆、幸せに生きる事を望んでいます。
主もそれを望んでいるのです。
私たちが貧しく、苦しみの中を通る事を望まれていないのです。
日々、心は平安で満たされ、生きていく事を望まれているのです。
ですが…私たちの生活、今、歩んでいる人生はどうでしょうか。
辛く苦しいものが多くないでしょうか。
私は、幸せな人生を生きる為に、私たちがするべき事があると思います。
愛するという事です。
誰を?
神を? 人を? 自分を?
全てです。
今までの人生で、理不尽な事が多くあったかもしれません。
傷ついた事が多かったかもしれません。
その傷が、ずっと自分を苦しめているかもしれません。
自分のその傷による苦しさが、足かせのように自分を捕え、
生き辛さが付きまとっていないでしょうか?
何かある毎に、自分の中の傷が痛み…うめくのです。
心の痛みや傷に捕らわれて生きていないでしょうか。
そこから脱出する方法があります。
愛することです。
私は、この「愛する事」が人生を大きく変える事ができると思っています。
しかし、実際、人を愛する事、自分を愛する事って難しく感じます。
絶対に許せない人はいませんか?
自分の人生をかけて復讐してやろうと思う人はいませんか?(私はいました…)
自分をここまで傷付けた人を、どの様に愛することができるのでしょうか。
絶対に無理です。
許す事も、忘れる事も出来ないのに、愛するなんて…
「愛する」という事は、
傷つけた相手を憎まない…という事ではなく、
自分が嫌いな人を相手にしない…という生き方ではないのです。
相手に対して、言いたい事はいっぱいあるけれど、100歩譲って、苛立たしい感情を持たないようにする…と言うものではないのです。
憎む相手を「愛する」ということです。
自分の心の中で、憎むべき相手を無視する、なかった事にする、相手にしない…ではないのです。
それを通り越して「愛する」ことを主は求められています。
主は、
「キリストに許されたように、互いに赦し合いなさい(エペソ4:32)」
「主に愛されたように、互いに愛し合いなさい(ヨハネ15:12)」と言われているのです。
主は、互いに赦し合い、愛し合う事を望まれているのです。
これは…自分には出来ない事です。
よく考えて下さい。
私たちは、私を傷つけた相手を許し愛する事は、到底できない難しいことです。
どうしてそんなに難しいのでしょうか。
どうして、「それだけは絶対無理だ!!」と思えるほど難しいのでしょうか。
私たちが相手を許し、相手を愛し、私たちが主の平安の中で生きて行く事を、喜ばない存在があるからです。
私たちが主と共に平安な人生を歩む事を、全力で阻止し邪魔をしてくる存在があるのです。
だから、絶対にこれだけは無理だ!と思わされているのです。
私たち、自力で憎むべき人を許し、愛する事は出来ません。
出来ない…だから主に依り頼むのです。
私たちがすることは、「相手を許し、相手を愛する」という事を「決断」するだけです。
「決断」して、主に「祈る」のです。
「私を長く苦しめたあの人… 主よ。主の御心なら、私は許したいし、愛したいです。力を与えて下さい。」と祈るのです。
私たちが出来るのは、「決断」し「祈る」だけです。
主が私の心を変えら、
本当に許す心と、愛する心を与えて下さるのです。
決断し、主に祈れば、主が働かれるのです。
憎む私たちの心を、私たちの許可なしに主は変えられないのです。
主に心を開いた者だけ、主はその人の心に入られ働かれるのです。(黙示録3:20)
イエスさまの差し出された手を取って下さい。
私が、主と自分と、隣人を愛せる人になれるように…
主の手を取り、助けを求めて下さい。
人を憎むという心から、解放され、今まで味わったことがない自由を得る事ができます。
人を愛するという行為は、
自分の幸せに生きる為の行為でもあるのです。
愛に満ちた人になる事…
それは主の似姿に似ていくという事です。
もっともっと、主の中で自由を得る事が出来ますように…
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」