医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。
マルコ2:17
8/5のブログに「人に失望していませんか」という内容を書きました。
これを書くことになったきっかけの友達。
すなわち、同じ教会員の人に失望してしまった彼女からまた連絡が来ました。
一旦、教会では皆を失望させた女性を受け入れ…という方向に向かっていたのですが。
今回の事がきっかけで、教会の中がギスギスした雰囲気になっているそうです。
何となく愛に満ちた状態とは正反対な雰囲気…だそうです。
居心地が悪く、教会に行っても楽しく感じるどころか、ちょっとため息が出そうな感じ…
彼女は、自分はこのままここに留まるべきなのか。
この際、教会を変えるか…と悩んでると言います。
いつも愛に満たされた教会であって欲しいと思いますが、
雰囲気が良くない時、また攻撃的な人が居る時、愛のない一言を言う人が居る時…など
何となく、居心地が悪いと感じる時があります。
今までそうでもなかったのに、何かのきっかけで教会が揺れる時があります。
何となく彼女のように「この際、他の教会に変える?」「行ってみたい教会に行ってみようか…」などという思いが湧いたりします。
何となく、臭いものにはフタをしたくなります…
どうしたら良いのでしょうか。
私は、教会は絶対に変わるべきではないとは思っていません。
時には、変わる事も必要だと思っています。
しかし、変わる前に祈り、考えて欲しいと思う点があります。
教会は、この世にあるという事です。
完璧な教会がないように、清い教会もないのです。
教会の中でも罪があるし、間違った判断をすることもあります。
嫉妬や争いもあり、盗みがある事もあるのです。
間違った教えを行い、異端と呼ばれるようになったり…
教会とこの世との違いは…と思ってしまう事があります。
しかし、覚えておきたい事があります。
イエスさまは、この罪にまみれた世界に来られたという事です。
清いお方が、馬小屋で生まれ、十字架で亡くなったのです。
清いお方が、人間の姿をとられ、罪にまみれたこの世に来られたのです。
欲にまみれ、自分の事ばかりを考え、自分の利益を求め、感謝より不満の方が多い私たち。
そのようなこの世に来てくださったのです。
自分の罪でさえ気付いていない私たち。
清い主は、この世でどのような思いで過ごされたのだろう…
イエスさまを信じると告白しながら、何か問題が生じると疑ったり、簡単に不信仰になる私たち。
感謝の涙を流しても、直ぐにまた主を忘れたり…
清いお方なので、私たちが感じる以上の不快感があったのではないかと思います。
どうして、主はこの世に来られ、十字架の死まで歩む事をされたのでしょうか。
主の愛が大きいからです。
どうしても救いたい…
どうしても罪の赦しを与えたい…
生きる希望を与えたい…
死の恐怖から解放させたい…
という思いが大きいからこそ、このドロドロとした世界に来られたのではないでしょうか。
正しく立派だから、主が私の罪を許して下さったのではなく、
どうしようもない罪人だから、同じ事ばかり繰り返す罪人だから、
主がそれを許す為に、この世に来られたのです。
主は、どの様な罪人も見捨てられない方です。
そんな事を考えたら、
私は、教会の問題を起こす人と、ドングリの背比べのような気がします💦
もちろん、教会は主の愛に溢れていて欲しいし、
良い兄弟姉妹に出会える場所であって欲しいです。
教会がその様な場所となるように、私から兄弟姉妹を愛していくべき…
問題が生じたら、その問題と向き合わず場所を移す…ではなく。
向き合う事も時には必要…
教会は主が建てられたものだからです。
一人一人が主に導かれた教会です。
今ある教会に、主が呼ばれたからです。
主の愛が溢れるそのような教会へと成長できるように、まず私が御言葉により主に満たされ、沢山の愛を受け、それを流せるようになりたいです。
主によって信仰が成長しますように…
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」