ヨブは主に答えて言った。
あなたには、すべてができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。
さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
ヨブ42:1-5
自分の人生で納得がいかない事ってありますか?
「神さま、どうしてでしょうか?」と訴え、呟きたくなる事・・
このように全く納得できなくて、「何故??」と思う時ほど、主に祈っても何も感じなく、無言で居られるように感じます。
ますます、私たちは孤独を感じ、自分の人生を絶望視してしまいます。
クリスチャンになって喜びに満たされた人生を送れるのかと思っていたのに・・
善なる救いの主がいると感じ主を信じたのに・・
私がピンチな時ほど、力強く泥沼から私の手を引き上げて欲しいのに・・
大事な時に限って、主の不在を感じます。
どうしてだろう?
主はどう思われているんだろう。
今起きているこの出来事、今私の身に降りかかっている出来事の意味はなんだろう。
この様に感じる事は多いと思います。
聖書を見ると、ヨブがその代表格のように思います。
ヨブ記を見ると1章1節に、ヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」と書かれています。
ヨブは何の努力もなく、自然と潔白で正しく生きているのではなく、
悪が満ちる世の中で、ヨブは凄く主を意識し、努力をして生きていたんだと思います。
そのヨブに、ある日を境目に・・家族、富、健康を失ったのです。
ヨブは、いつもと変わらず神を恐れて生きていました。
しかしこの様な不運と言わざろう得ない状況に追い込まれたのです。
信頼していた友たちは、ヨブの置かれた状況を見て、「ヨブに罪があるからだ」と言い「悔い改め」を勧めるのです。
ヨブの心はどうでしょうか。
一気に家族と富と健康を奪われ、慰め勇気づけて欲しい時に友は、自分を責めるのです。
友からしたら、ヨブを思い「早く悔い改めこの状況から脱出して欲しい」という思いがあったかもしれません。
しかし、この時のヨブにとって友たちの言葉は、一層ヨブを孤独にしたのではないかと思います。
私たちには聖書があり、ヨブ記を最初から最後まで読むことができます。
ヨブに罪があったからではなく、サタンがヨブをふるいにかけることを、主が許されたからヨブはこの様な状況に身を置いているのです。
しかし、ヨブはそんな事は全く知る由もありません。ヨブは主とサタンとの間にそのようなやり取りがあったとは知らないのです。
自分の状況を理解できず、理由が分からないのです。
ただただ、分からない、「どうして・・??」という状況だったのです。
万一、私がヨブのように潔白で神を恐れて生きていたのに、この様な状況に見舞われ・・
祈っても祈っても、主の不在を感じたら・・主に捨てられたように感じるかもしれません。
私たちの人生にも、分からない事、不可解な事。
「何故??」と言いたくなる事が多くあります。
解決でき、納得できる事の方がはるかに少ないかもしれません・・・
ヨブ記はその為に書かれたのかもしれません。
ヨブから学べる事は、
ヨブは自分の不可解な状況に見舞われても、主を賛美したのです。
自分の苦しみ、悲しみ、孤独などという感情を超えて、信仰を選んだのです。
私の人生の主権は私にあるのではなく、神ご自身にあり、
全ての事を治める主権を持っておられる方は主である・・
最後の最後まで、主はヨブに彼の苦難の理由を明らかにしませんでした。
主が明らかにされたことは、神がすべての創造主であり、すべてをつかさどる主であること。そして、神と生きることが全てであり、十分である。ということです。
主が愛の方であるならば、どうして正しい人が苦しみに遭うのか・・
正しい人も、そうでない人も苦しみに遭うのです。
私たちは、自分が納得できる「理由」や「説明」によって生きるのではないのです・・・
主が与えて下さる不動なる約束を信じて、それを信じる信仰によって生きるのです。
ヨブのように、自分の置かれた状況に心を奪われず、主を見上げる事が出来ますように。
今から(有事の前から)御言葉を蓄え備える事が出来ますように・・
今日も、主を見上げる一日をお過ごしください!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」