どうして罪を犯してしまうのか【創世記3:1-5】

2023年

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

創世記3:1-5

今日の御言葉は、何度も読んだことがあり、説教でも聞いた事がある御言葉です。

読む度に、蛇は本当に狡猾・・悪賢く、知恵があり、主を良く知っている・・と思います。

始めに蛇が言った言葉は、

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

主がアダムに言われた言葉は、

「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:16-17)」

主は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と肯定の表現です。

しかし蛇は「園のどんな木からも食べてはならない」と否定の表現です。

蛇は主が言われた言葉と「真逆」の事を言いながら「主は、本当にそんなことを言われたのですか?」と問いかけたのです。

この蛇の言葉には巧みさがあります。

主に対して疑いを投げかけ「エバ、可哀相に。あなたはそんな酷い事を言われたの?」というニュアンスを感じます。

それに対してエバは、

「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」と答えました。

エバは、主が言われた言葉に、少し自分で「それに触れてもいけない」という言葉を足してしまいました。

エバは少し大げさに「これもダメと言われた・・」と答えたのです。

エバの少し大げさに表現したその答えを聞いた蛇は、ストレートで嘘を言うのです。

「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

エバが一番心配しているであろう「死」という問題。

その一番大きな問題を無かったこと、解決したかのように話しかけるのです。「あ!死の問題?それは大丈夫。死ぬことはないから!」と言った風に。

ここでいう「死」とは「肉体的な死」ではなく「霊的な死」を意味します。

主と人間との霊的な交わりが無くなってしまう。エデンの園にいた時のような交わりではなくなる・・という意味です。

エデンの園から追い出されたアダムとエバは、以前のように主との霊的な交わりが出来なくなったのです。

そしてエデンの園を出てから本当に「肉体的な死」が入って来たのです。

エバはどうして善悪の知識の実を食べてしまったのでしょうか。

「与えられたもの」ではなく「与えられなかったもの」に視点をフォーカスしてしまったのです。

現に主は、

「園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言われたのです。

与えられている方が遥かに多いのです。

エバは、主が与えられなかったのはたった一つだったのに、、その一つに視点をフォーカスし「与えれないもの」を、自分の力で手にしてしまったのです。

私たちもエバと同じ過ちを犯す可能性が高いです。

いつも「与えられたもの」より「与えられなかったもの」に心が奪われ「どうして与えられないんだろう・・」という不満や不信を持ってしまいがちなのです。

主は与えて下さる神さまです。

しかし、全て私が願う事を与えてくれる訳ではないのです。

親は、幼い子どもが欲しがるものを全て与えません。必要だと思うものを与えます。

もしかしたら、与える時期ではないという判断かもしれませんし、

子どもが、全く見当違いなものを欲しがっている事もあります。

蛇(サタン)は私たちに、与えられなかったものをフォーカスさせ、不満や疑問を持たせるのです。

そのような私たちの姿をみて誘惑するのです。

与えられなかったのなら自分の力で得ればいい・・

与えられなかったものにフォーカスをしてしまったエバは、善悪の知識の実を見た時「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」とあります。

フォーカスを正しくしないと、誘惑に染まった目で世の中を見るようになるのです。

私たちが何にフォーカスをして生きて行くか・・が大切です。

どうして主は、善悪の知識の木をエデンの園に置かれたのでしょうか。

この木さえなければアダムとエバは罪を犯すことなく、エデンの園を出る事もなかったのに・・と思いますよね(私も思います💦)

主は私たちに「自由」を与えられたのです。

自分で選択できる自由。主に従う自由と従わない自由。

これは主の大きな愛です。

もしこの自由を与えなかったとしたら、私たちは選択をすることが出来ない主のロボットです。

また、この善悪の知識の実は、

神さまと人間の境界線のようなものにも感じます。

神さまの領域。そこには入ってはいけないのです。

本当の善悪の判断は人間には出来ないのです。

本当の善悪の判断が出来るのは主だけなのです。

私たちは、何にフォーカスして生きて行くべきかが大切です。

フォーカスを間違うと、罪に引っ張られ得るのです。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
(詩篇 103:2)

主が与えて下さったものにフォーカスする一日となりますように!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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