さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
創世記3:1-5
今日の御言葉は、何度も読んだことがあり、説教でも聞いた事がある御言葉です。
読む度に、蛇は本当に狡猾・・悪賢く、知恵があり、主を良く知っている・・と思います。
始めに蛇が言った言葉は、
「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
主がアダムに言われた言葉は、
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:16-17)」
主は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と肯定の表現です。
しかし蛇は「園のどんな木からも食べてはならない」と否定の表現です。
蛇は主が言われた言葉と「真逆」の事を言いながら「主は、本当にそんなことを言われたのですか?」と問いかけたのです。
この蛇の言葉には巧みさがあります。
主に対して疑いを投げかけ「エバ、可哀相に。あなたはそんな酷い事を言われたの?」というニュアンスを感じます。
それに対してエバは、
「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」と答えました。
エバは、主が言われた言葉に、少し自分で「それに触れてもいけない」という言葉を足してしまいました。
エバは少し大げさに「これもダメと言われた・・」と答えたのです。
エバの少し大げさに表現したその答えを聞いた蛇は、ストレートで嘘を言うのです。
「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
エバが一番心配しているであろう「死」という問題。
その一番大きな問題を無かったこと、解決したかのように話しかけるのです。「あ!死の問題?それは大丈夫。死ぬことはないから!」と言った風に。
ここでいう「死」とは「肉体的な死」ではなく「霊的な死」を意味します。
主と人間との霊的な交わりが無くなってしまう。エデンの園にいた時のような交わりではなくなる・・という意味です。
エデンの園から追い出されたアダムとエバは、以前のように主との霊的な交わりが出来なくなったのです。
そしてエデンの園を出てから本当に「肉体的な死」が入って来たのです。
エバはどうして善悪の知識の実を食べてしまったのでしょうか。
「与えられたもの」ではなく「与えられなかったもの」に視点をフォーカスしてしまったのです。
現に主は、
「園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言われたのです。
与えられている方が遥かに多いのです。
エバは、主が与えられなかったのはたった一つだったのに、、その一つに視点をフォーカスし「与えれないもの」を、自分の力で手にしてしまったのです。
私たちもエバと同じ過ちを犯す可能性が高いです。
いつも「与えられたもの」より「与えられなかったもの」に心が奪われ「どうして与えられないんだろう・・」という不満や不信を持ってしまいがちなのです。
主は与えて下さる神さまです。
しかし、全て私が願う事を与えてくれる訳ではないのです。
親は、幼い子どもが欲しがるものを全て与えません。必要だと思うものを与えます。
もしかしたら、与える時期ではないという判断かもしれませんし、
子どもが、全く見当違いなものを欲しがっている事もあります。
蛇(サタン)は私たちに、与えられなかったものをフォーカスさせ、不満や疑問を持たせるのです。
そのような私たちの姿をみて誘惑するのです。
与えられなかったのなら自分の力で得ればいい・・
与えられなかったものにフォーカスをしてしまったエバは、善悪の知識の実を見た時「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」とあります。
フォーカスを正しくしないと、誘惑に染まった目で世の中を見るようになるのです。
私たちが何にフォーカスをして生きて行くか・・が大切です。
どうして主は、善悪の知識の木をエデンの園に置かれたのでしょうか。
この木さえなければアダムとエバは罪を犯すことなく、エデンの園を出る事もなかったのに・・と思いますよね(私も思います💦)
主は私たちに「自由」を与えられたのです。
自分で選択できる自由。主に従う自由と従わない自由。
これは主の大きな愛です。
もしこの自由を与えなかったとしたら、私たちは選択をすることが出来ない主のロボットです。
また、この善悪の知識の実は、
神さまと人間の境界線のようなものにも感じます。
神さまの領域。そこには入ってはいけないのです。
本当の善悪の判断は人間には出来ないのです。
本当の善悪の判断が出来るのは主だけなのです。
私たちは、何にフォーカスして生きて行くべきかが大切です。
フォーカスを間違うと、罪に引っ張られ得るのです。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
(詩篇 103:2)
主が与えて下さったものにフォーカスする一日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」