彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」
ヨハネ3:26
久しぶりの友達から連絡がありました。
大抵、久しぶりの友達から連絡がある時は、何か困った時です。
凄いストレスを感じる日々を過ごしている・・と言うのです。
話を聞くと、彼女は凄く仕事ができるキャリアウーマンなのですが、最近スカウトで入って来た年下の人が、凄く能力が高いそうで・・・
存在がストレスだと・・💦
電話を切り、頭に浮かんだのが今日の御言葉の箇所に出てくる洗礼者ヨハネです。
「洗礼者ヨハネのバプテスマ」と「イエスさまのバプテスマ」が比較したように記録されています。
イエスさまの母マリアと、洗礼者ヨハネの母エリザベトは親族であり、イエスさまよりヨハネの方が6カ月前後先に生まれています。
成長した洗礼者のヨハネは、ユダヤの荒野で神の教えを伝えるようになりました。
洗礼者ヨハネはイエスさまの「先駆者」でした。
イエス・キリストの到来を予告し、人々を悔い改めと罪の赦しに導く役割を果たす者でした。
ヨハネの元に、
旧約聖書に、救世主が来られるという予言があり、ユダヤ人は救世主を待ち望んでいました。
人々はヨハネが救世主ではないか?という噂が立つほど、ヨハネは注目され、尊敬されるようになっていました。
ある日、ヨハネの弟子たちがイエスさまがバプテスマを授けているのを見て、ヨハネに「人々が私たちの方ではなく、あちら側に行っています」と言うのです。
イエスさまより先にバプテスマを授けていたヨハネより、イエスさまの方が人気がでたのです。
少し前まで、ヨハネに人が殺到していたのに、人々の流れがイエスさまの方に移って行ったのです。
もちろん、ヨハネは自分の立場をわきまえて居ました。
「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません(マルコ1:7)」と言いました。
その上、洗礼者ヨハネの弟子であったアンデレは、他の弟子と2人でヨハネから去り、イエスさまの弟子となったのです。
今の時代であれば、ライバル会社へ転職した感じです。
人間的にこの一連を解釈するならば、後から来た者が先の者を超えたのです。
先の者より、後の者が有能であり、先の者がすたれていったのです。
もしヨハネが弟子たちのように人間的に「比較」をしたらどうでしょうか。
比較をすれば「失望」や「挫折」を味わうのです。
そして有利に立った方は「高ぶり、高慢」を引き起こすのです。
今まで第一線で働いていた人が、後から現れた人に抜かされるのです。失望し、挫折感を味わい、「ねたみ」まで起こります。
「平安」とは程遠い状態に陥るのです。
しかし、ヨハネは正しく自分の立ち位置を認識していました。
イエスさまと自分は比較する事が出来ない存在であると分かっていたのです。
比較する事が出来ない、比較する対象ではない、全く違う存在であるという事を知ってました。
自分に与えられた立場が、主の立場と全く土俵が違うという事を。
比べる対象でないという事を。
私たちも同じだと思います。
人と比べて、自分の能力の無さに落胆し、失望し、挫折感に見舞われストレスを感じるのです。
主は私たち一人ひとりに目的をもって創造されました。
私たちは一人ひとりに違うステージを与えられているのに、同じ土壌に立って互いを比べているのです。
比べるという行為は「意味がない」のです。
無意味な行為を通して、ストレスを受けているのです。
比べるのではなく、主が私に与えられたステージで生きるのです。
主が私に望まれた人生を探し求めるのです。
私たちが人間の目で世の中を見、感じ判断するのではなく、主の目で見る事が出来ますように。
主の目で世の中を見て感じる事が出来るように祈ります。
今日も、主が望まれた人生を歩む一日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」