わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、
あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、
もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、
銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、
そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。
主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。
箴言2:1-6
「学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである(教育哲学者 林竹二)」
という言葉を目にしました。
何かいい言葉だな・・と思いつつ、何が良いんだろう・・と黙想しました。
信仰を持ち生活を送る中で、何となく気持ちがパッとしない時ってないですか?
イエスさまを信じ、イエスさまを自分の心にお迎えしたのだから、ずーっと喜びで満たされていたらいいのに・・と思いませんか。
イエスさまを信じてるのに・・
どうしてこんなに辛く苦しい思いをするんだろう・・
イエスさまを信じても、信じない時と同じように苦しく感じる時があります。
・・こんな思いが心に募って来ると「私は本当に主を信仰しているのだろうか」という疑問さえ出てきます。
・・洗礼を受けた当時は、心から喜びが溢れ出て来ていたのに。「あの頃が懐かしい。あの頃は凄く満たされていた」と感じたりしませんか。
「最近、信仰の調子がイマイチ・・」
「以前のように主を感じる事が出来ない」
「主を信じる事にメリットはあるのだろうか」
「主を信じるのと信じないのと同じではないか」
これは主を信じ信仰生活を送る中で、誰しもが経験し感じる事のように思います。
以前も書いたことがあると思いますが。
信仰の段階が上がったのです。
主を信じ神の子とされた頃は(主によってもう一度生まれた)赤ちゃんのように・・主が母親のように接して下さり、主の喜びで満たして下さり、
生きる事が素晴らしい事、主の喜びが世の喜びとは違い、心の内から溢れ出てくるものだという事で包んでくれたのです。
「あなたは私の愛を知らずに生きて来たけれど、私の愛はずっとあなたに降り注いでいたんだよ」
「私に目を向ければ、あなたは私の愛を感じる事が出来るんだよ」
「これからは、私に目を向けて生きて行って欲しい・・」
と、主が今までの人生を慰め、主の愛で満たし、主から得る喜びを経験させてくれたのです。
しかし、ずっと赤子の様な信仰ではなく、1人で立ち上がり神の子としての歩き出す事が出来る段階に入ったのです。
苦難を通して、主を経験していくのです。
悲しさを通して、主と向き合っていくのです。
無力を通して、主の偉大さを感じるのです。
このような思いを通して、私たちは偉大なる主の御力、主の愛、主の赦し、主がどういったお方なのかを学び、知っていくのです。
主を学び、知っていくという事が、キリスト者として歩んで行くという事だと思います。
日々の色々な出来事を通して、主をと向き合い主を経験し、主を学ぶのです。
主を学ぶという事は、単に「聖書に出てくる物語を知る」「キリスト教とはこのような教えなんだ」と情報として得る事ではなく、
主を学ぶとは、今まで知らなかった新しい主の一部を知り、それは知り尽くす事が出来ない終わりのない主の世界を旅することです。
主を学ぶとは、自分の人生に変化が起きるという事です。
思考や行動、決断、物の受け止め方、人間関係などに、今までの自分とは違う変化が起きるのです。
主を学ぶという事は、生き方が変わるのです。
今、自分を取り巻く出来事、自分を悩ます出来事を主の前に差し出し、主の目でそれらを見る事が出来るように祈る必要があります。
また御言葉を通し、主がどのようなお方なのか、聖書はただの物語が書かれているのではなく、
私に向けたメッセージなのです。
私の人生の指針となるメッセージが書かれています。
聖書を通して主を学ぶ事が出来ます。
心が辛い時は、主を学ぶ時なのです!
今日も、主に目と心を向け、主を学ぶ一日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」