思い通りに行かない時どうするか【申命記31:7】

2023年

ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄雄しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。

申命記31:7

昨日、ブログを書きながらモーセの人生を振り返っていました。

モーセの人生・・波乱万丈です。

王子として過ごした人生、身を隠し羊飼いの人生、出エジプトを導くリーダーとしての人生。

人生半ばで、自分の人生は羊飼いで終わるのかと、自分の人生に落胆する時間を過ごしたモーセ。

イスラエルの民を導くリーダーとして、民の不信仰さに何度も心を痛めた時間。

モーセが自分の人生で、一番悲しい瞬間はいつだったでしょうか。

主にカナンの地を目の前にして「あなたは約束の地に入れない」と言われた時ではないでしょうか。

40年間の終着点が目の前にあり、とうとう自分の苦労が報われようとしている時に、主がモーセに「あなたは約束の地に入れない」と言ったのです。

生涯をかけて主に従って来たのに、最終形を見せてもらえないのです。

あと一歩のところで、後継者ヨシュアにバトンタッチするように言われたのです。

モーセは主に「カナンの地に入りたい」と何度も懇願したのです。

しかし、主は「もう、その話はするな」と言われたのです。

私たちの目には、モーセが犯した主への不従順は小さいものです。その小さな罪に比べ、主がモーセに語った内容は大きく感じます。

小さな罪のと主が与える罰の比重が合っていない・・と感じます。

それほど、モーセには沢山のものを与えられ、祝福を受けた者としての責任も大きいと言われています。

それだけが理由で、カナンの地に入れなかったかどうかは分かりません。

聖書を読んで分かる事は、約束の地を目の前に「あなたは入れない」と言われたという事です。

モーセが約束の地に入ってから天に召されたのなら、聖書を読む私たちも「主に従う人生の希望」を感じ、腑に落ちます。約束の地を目の前に「入れない」というのは人間的に理不尽だと感じてしまいます。

私たちも、自分の人生のなかで、理不尽を感じる事があります。

どうして私が病気になったんだろう・・

死ぬ気で勉強したのに・・

寝る時間を惜しんで取り組んだプロジェクトなのに・・

目標に向かって努力して来たのに・・

この為に念入りな準備を重ねて来たのに・・

時間とエネルギーを費やしてきたのに・・

思ってもない事が人生に起きるのです。

聖書を見ると、このモーセのように切に願ってもNOと言われる事があります。

パウロも、「肉体のとげを取って欲しい」と懇願しました。(Ⅱコリ12:7-9)しかし、とげは取り去られる事はありませんでした。

イエスさまも、十字架に架かる前に「この杯を取り去って欲しい」と懇願しました。(ルカ22:42)取り去られることなく十字架で亡くなられました。

反対に、主が一度言われた事を祈りのよって思い直されている事もあります。

主がソドムとゴモラを滅ぼすと言われた時、モーセは主に御心が変えられるように食らいつきました。(創18:23-33)

南ユダ国の13代目のヒゼキヤ王、自分の病について涙を持って懇願し、15年の命が与えられました。(イザヤ38:1-5)

涙を持って主に祈り、御心が変えられる事もあれば、

祈っても、「NO」と言われ「STOP」と言われる事があるという事です。

問題は、「NO」「STOP」と言われた時、自分の思い通りにいかないと分かった時・・どうすれば良いのでしょうか。

今日の御言葉は、主に「NO」「STOP」と言われた時に、モーセがとった行動です。

民を集め、ヨシュアを祝福し「これから民を導くのはあなただ」と宣言したのです。

民もヨシュアも驚いたと思います。

この時モーセは120歳。衰える事なく健康であったのです。(申37:4)

肉体的問題ではなく、霊的問題でモーセはカナンの地に入れないと民も感じたでしょう。

主に懇願しても「NO」「STOP」と言われた時、

モーセは自分に許されたもので満足しようと切り替え、ヨシュアを祝福したのです。

死を目の前にして、自分が最後に出来る事、民が約束の地に入れるようにヨシュアを祝福する事を選んだのです。

思いもよらない「NO」「STOP」・・

私たちにとって一番大きい「NO」「STOP」は「死」です。

私たちもいつか突然「NO」「STOP」と言われ、人生を終える瞬間がやってきます。

その時、道半ばであったとしても自分に許されたもので満足できる者となりたいです。

自分に出来る事、自分がこの世に残せる物もの・・・信仰の継承です。

家族に、子どもに、友達に、同僚に、隣人に・・・

私たちはいつ自分の人生を終えるかは分からないですし、最後に時間が残されているかも分かりません。

いつ主に呼ばれてもいいように・・信仰の継承に心を配って今日も一日歩みたいです。

今日も、主と共に歩み、与えられた物で満足する一日をお過ごしください!

タイトルとURLをコピーしました