イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。
主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。
しかし、彼らがオメルでそれを計ってみつろ、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。
モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」
出エジプト16:15-19
今日は私の感じた事を書きます。
イスラエルの民のエジプトからの奴隷解放。
主はモーセを用いられ、多くの奇跡を起こされ続け民を救われました。
その多くの奇跡の中の一つに「マナ」があります。
イスラエルの民はこの天から降って来たマナで40年養われたのです。
マナは不思議な食べ物でした。
➀ 多く集めても少なく集めても一定の量、一人当たり1オメル(2.3リットル)ずつになった。
② 毎朝降り、次の日になると腐ってしまう。しかし「安息日」だけは降らず、前日降ったマナは腐らなかった。
この不思議なマナ・・一体どういう意味があるのでしょうか。
今まで、牧師先生の説教でⅡコリント8:14-15を引用され「互いに分かち合う・分け合う」と言う意味がある。と何度か聞いた事があるのを記憶しています。
今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。(Ⅱコリント8:14-15)
しかし、実の所、私はあまりピンと来ていなかったのです。
私の理解力の問題かもしれませんが、何となく余り「なるほど!!」と感じる事が出来ず、モヤモヤとしていた事を思い出しました。
そして一週間ほど前から、このマナの事が書かれている箇所を読み直していました。
どうして、多く集めた者と少し集めた者が同じ量となったのか。
「自分の食べる分、一人当たり一オメルずつ、あなた方の人数に応じて集めよ。」と言われました。
1人一オメルずつ・・と言われているのに、多く集めた者と少し集めた者がいるのです。
毎日集めていれば、一オメルの量がどれ程か分かるハズです。
それでも多く集めた者がいて、少し集める者がいたのです。
食べ物ですから、人より多くを必要とする人もいれば、食の細い人もいる・・。
自分は人より多くとったつもりでも、
反対に、隣の人は欲張って多くを取っている様に見えても、
また自分には人より少なく与えられたように感じても、
主の計りでは同じなのかも・・と思いました。
自分が欲を出して「ちょっと多めにもらおう!」とルール違反をしたとしても、
反対に誰かがそのような少しズルい違反をしていたとしても・・
私たちはそのような姿に苛立たなくて良いのかもしれません。
私の目に、私は少なく、他者が多くを持っていようが、主の目には同じ量なのかもしれません。
朝毎にマナが与えられたように、私たちもその日その日の必要な祝福は、朝毎に与えられるのです。
今日の祝福を明日の為に残す必要はないのです。
今日与えられた祝福の期限は今日なのです。
安息日にはマナは降らず、前日のマナは腐らなかったというのも、不思議な出来事です。
一度に多くの祝福を与えるので、分けて使いなさいと言う意味ではなく、主の祝福は人間には理解し難い・・という意味な様な気がします。
人間には理解し難い不思議な方法を用いて、主は人を養い祝福を与える事が出来ると言う証明のように思います。
この解釈が合っているかどうかわかりません💦
今の自分の状況、最近考えていること、ずっと祈っていること、疑問に思っていること、自分が出会った人たちを通しての会話などなど・・
私の今の心の状態や霊の状態からの解釈かもしれません。
横の人は、カゴ一杯のマナを持ち、自分のカゴには少しのマナ・・
人のカゴの中をみて、不平不満を言うな。
私は、あなたのカゴの中にあるマナであなたを完璧に満足させることが出来る。と言われている様に感じました。
私は、Youth With A Mission(YWAM)というキリスト教の宣教団体の弟子訓練コースを受けた事があります。
仕事を辞め、半年間寝食を共にしながら学ぶのです。ここで同期が10名いました。
SNSで数名は連絡を取っていました。そして昨日、20年ぶりに同期の2人の友達に再会しました。
時間があっという間に過ぎ去りました。
懐かしい半年間の弟子訓練の話をし、また今この10名がどうしているのか、互いに知っている部分を分かち合いました。
1人は、韓国の大きな教会の牧師、1人は韓国の大きな教会の牧師夫人、日本で牧会をしてる牧師、サラリーマン、主婦、そして私が一番仲が良かった人は亡くなっています。
帰り道・・一人一人を思い出し、祝福の祈りをしました。そして「神さまは、どうして彼を連れて行かれたんだろう・・私は彼に対してどのように祈れば良いんだろう・・」と思うと、悲しさがこみ上げてきました。
そんな事を電車の中で思っている中、数日考えを巡らせていたマナの話が頭に浮かんだのです。
そして、「命の長さも、マナの多い少ないも同じ・・主が与えられたマナに彼は満足している」という思いが体の中を駆け巡りました。
急に涙がどっと溢れ出ました。
今までは考えると心が痛むので、彼の死を直視できずに過ごしてきたからです。
マナの解釈・・
私だけの答えかもしれません。
彼の死に対する私の思い。
主は私のその思いに答える為に、一週間ほどマナを黙想させ準備されていたように思います。
これからは、少しずつ彼を思い出し、彼の存在を通して主の語りかけに心を開いてみようと思いました。
今日も、主が与えられたマナに感謝しながら一日をお過ごしください!