見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
黙示録3:20
「クリスチャンですか?」と聞かれたら、何と答えますか?
「はい。クリスチャンです!」と答えますよね!
洗礼を受けてから、今まで、常に自信を持って「はい。クリスチャンです!」と答える事が出来たでしょうか。
時には、「私は本当に信仰があるのだろうか」「私は本当に主を信じることが出来ているんだろうか」・・・
このように考えた事、ありませんか?
多分、殆どのクリスチャンはこの様な自問自答をしたことがあるのではないでしょうか。
どうして、私たちの信仰には安定感がないのでしょうか。
凄く満たされ「主よ!感謝します!」と喜びに満たされる時もあれば、
主の不在を感じてしまう時・・・
主に祈っても、主が沈黙されているかのように感じる時・・・
ありますよね?
どうしてでしょうか。
不在感、沈黙・・この様に感じる時は、私たちはどの様な状態なのでしょうか。
主を必死に何かを求めている時ではないでしょうか。
主を必死に求めているのに、主が黙られている様に感じたりしませんか?
・・私たちが必死に求めている時は、どの様な時でしょうか。
何か問題を抱えている時ではないですか?
傷ついたり、迷ったり、問題を抱えた時、自分に失望したり、上手くいっていないいない時、助けて欲しい時・・
どうして、助けて欲しい時に私たちは主を感じないんだろう・・・
主を感じない時があるから、主に答えてもらえない時があるから、完全に私たちは揺るぎない信仰を持つことが出来ないのです。
長く信仰生活を守って来ても、教会で奉仕を沢山しても、揺らぐ時があるのです。
信仰が揺らぐ時がなければ、信仰に安定感があれば、私たちが主を信じきれれば、私たちは主に対して不在感を感じる事がなくなるかもしれません。
しかし、、この、揺いだり、主を信じ切る事・・・これは仕方がない事だと思います。
主を信頼しきれないのは、私たちが生まれた時から持っている本性だと思います。
アダムの時に人間に罪が入り、エデンの園を出た時から、主と私たちの間に「溝」が出来たのです。
私たちは、この「溝」という主との関係性を持って生まれているのです。だから信じきれない。揺らぐ・・というのは本性に近いと思います。
本性だから・・・仕方がない? だからどうしようも出来ないという訳ではないと思います。
信仰の揺らぎを少なくし、安定感を持つ方法があります。
自分には力がないと認める事です。主が居なくては何も出来ないと、日々、実感し続けることです。
主ななしでは生きて行けないと実感し、切に求めることで信仰の揺れを少なく出来ます。
自分の力で何かしよう・・ちょっと自分の力でやってみたい。。と思う時、私たちは虚しさや主への信仰が揺らぐのです。
主から少し離れ、私たちの心に自立しようという思いがある時、揺らぎ、主を不在感を感じ、主を信じきれなくなるのです。
私たちの内に「ちょっと自分で好き勝手したい」「これは主が喜ばれない事だけど・・でも手に入れたい」という思いがあるのを主はご存知です。
主が意図的に、私たちに試練を与える事もあります。(2023.1.20ブログ)
主が意図的に与えられた試練にしろ、自らが主と少し距離を取ろうとして招いた試練にしろ、悪が働いた試練にしろ、、、、主が許されたから、私たちは試練を受けるのです。
主が私たちの高慢な思いを砕くために、様々な局面を与えられるかもしれません。
主は、原因がなにであれ、全てを益として下さる方です。だから、主は試練を通して、私たちが虚しさを感じ、私たちが「主から離れず完全なる信頼」を選べるように待っておられるのです。
試練は、無意味なものではないのです。
主からの語りかけです。
私たちが日々、謙遜になり、心から自分の無力さを認めるまで、
私たちの信仰は、揺れ動かされます。
日々、完全に自分の無力さを認め、主に依り頼むなら、信仰の揺れが少なくなります。
信仰は、教会に通うだけで、満足し安心してはいけないと思います。
信仰は、年月を重ねれば成長するものではないと思います。
日々、主の前で謙遜になり、自分の力のなさを認める必要があるのです。
「 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙3:20)」
この御言葉は、主を知らない人だけに語られているのではないと思います。
主を信じているクリスチャンたちにも語られているのではないでしょうか。
試練を通して、主が私たちの心を叩かれているのです。
「もっと私を迎え入れよ」「もっと私を信頼せよ」「あたなの心の王座に、私を座らせてくれないか?」と・・・
日々、私たちは謙遜になり、自分の無力さを認め、主の前に悔い改める必要があるのです。
今日も、主の前で悔い改め、一日をスタートしたいと思います。
主を選ぶ一日をお過ごしください!!