モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
出エジプト4:10
コンプレックス(劣等感)を感じていますか?
コンプレックスから解放され、克服する為、人は努力します。
しかし残念な事に、努力すればするほど絶望感を感じ、一層苦しく感じる事が多いのです。
自分の力で解決できるものは・・・劣等感ではないのです。
解決できないから悩み心が縛られ、劣等感、引け目を感じるのです。
劣等感は、「この部分が私の劣等感」と言わなくても、他の人にも感じられる(バレてる)劣等感があり、自分だけしか分からない劣等感があります。
人にバレていてもそうでなくても、劣等感には共通している点があります。
劣等感が触れられた時、怒りが生じてしまったり過剰な反応を起こすという点です。
反応は態度に出る事もあれば、内面だけで抑える事もありますが、どちらも心が乱されるのです。
モーセの様な立派なリーダーにも劣等感があったのです。
主の燃える柴を見た時、主はモーセに”あなたを遣わそう”と言われました。
モーセは「私は口が重く、舌が重い」と自分の最大な欠点を主張しました。しかもモーセはエジプトから逃げて来た身です。そこへ遣わすと言われた主。(出4:10)
モーセは、どうにかして遣わされないように抵抗したのです。
モーセのように出エジプトのリーダーとなった人の劣等感は「口下手」だったのです。
民は成人男性だけで60万人。子どもや女性もいたのです。
それほど多くの人を導くリーダーとしては「口下手」は致命的だと思いませんか。
涙の預言者と呼ばれたエレミヤ、
主は、エレミヤに「あなたを胎内に形造る前から聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」とまで言われたのに、
主に呼ばれた時「私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません」と、従えない理由があると主張しています。(エレミヤ1:6)
聖書を見ると、
主が大きな働きを任せる時、性格や人格、品格、見た目、リーダーシップなどが整った人だけを用いるのではなく、不足がある人も用いられました。
12弟子たちも、人格が整った人ばかりではなかったのです。
どうしてでしょうか。
私たちが住む社会では、有能な人、即戦力がある人に価値が置かれ、人々はそのような人を必要としますが、
主にとっては、劣等感、自分には力不足だと感じているを必要とされているのです。
自分は劣等感があり役不足だと分かっている人は、主に頼るしか道がないからです。
自分に自信があり、自分の考え、判断で動ける人ではなく、新入社員のように、聞かないと何も出来ない人を望んで居られるのです。
社会が望む人と、主が望まれる人は違うのです。
しかし、この人より劣っているという思い・・
これらは、自分で持ち続ければ、文字通り劣等感で嫌なものなのです。不必要なもので自分の中ではマイナス的なものなのです。
しかし、主によってマイナス的な部分を用いてもらう事が出来るのです。
劣等感を通して、心の傷を通して、主は働かれたいのです。
自分が不足だと力がないと分かっている者は、主に依り頼むからです。
主はお一人で何でも出来ます。
しかし私たちを通して働かれたいのです。
私のもつ「強さ」ではなく「弱さ」を通して働かれたいのです。
自分の弱さを認め、弱さを通して主が働かれれば、それはもう、単なる弱さではなくなります。
「誇るべき弱さ」になるのです。
パウロも、
「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(Ⅱコリント11:30)と言っています。
自分の弱さ・・劣等感、不足感、心の傷・・マイナスだと思っている部分を、「なくして下さい」ではなく、
「用いて下さい」と祈るべきかもしれません。
私たちの劣等感が使命に変わります。
私たちの傷が使命に変わります。
使命へと変えられれば、それはもう劣等感でも傷でもなくなり、「誇るべきもの」となるのです。
私が、取り除いて欲しいと思っている部分を黙想し、主に用いられるように祈る日としたいです。
主の中で、自分の弱さが「誇るべきもの」と変えられる一日をお過ごしください!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」