それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
Ⅰペテロ4:10
先日、私のスマホに知らない番号から電話がありました。
どう見ても韓国からの電話・・
夫の知り合いかな? と思いつつ電話にでました。
「〇〇さん?(私のフルネーム)」
私「はい。そうです・・」
「俺だーれだ?」
私「・・誰だ? え・・?だーれだ? 」
この時点で、夫の知り合いではなく、私と同年代で、夫ではなく私と近い人だと分かりました。凄く軽い性格・・一体誰・・?と頭の中でグルグル考えていると、
「俺! 俺!〇〇だ!」と言われ・・
私「えーーーホントに?? 本当?? スッゴク久しぶり!! 何か全然変わってない・・(笑)」
私が韓国にいてた時、同じ大学の神学生で、同じ教会に所属し、同じ高校生担当で奉仕していた人で、彼は当時、伝道師でした。
電話で話すうちに、急に気持ちが20年前にタイムスリップし楽しい時間を過ごしました。
彼は(今は牧師先生)、神学生のころは教会で賛美リードをしており、ルックスも手伝い? 中高生や女性に人気の先生でした。
性格も良く明るく、どちらかと言えば、少しチャラチャラした感じでした。
昔、私は「〇〇さー、イエスさま信じてて良かったわー。もし信じてなかったら、大変だよ。あなた女の人にモテるしチャラチャラしてるし、罪多い人生だったよね(笑)」と言って笑った事がありました。(←私って失礼(笑))
韓国にいてた時、大きな教会に属していました。
そこでは神学大学生たちは伝道師として、中高生の奉仕をしてました。
学生の伝道師が8名いたのですが、性格がバラエティーに富んでいました。
この電話をくれた先生のように、誰にも気さくに親しみを込め話せる明るい性格。人気がありリーダーシップがある人。
この電話の先生と同じようなタイプがもう1人いました。しかし先頭に立ってリーダーシップを発揮するというタイプではなく、2番目を好むタイプ。電話の先生の補助的な感じ。
すっごく真面目で良い育ちなんだろうな~と思わせる先生。いつもニコニコしていて、面白みには少し欠けるけれど、誠実そのもの!と言った良い感じの先生もいました。
人の前に立ちリーダーシップを発揮するというより、自分を頼って来る者には親身となり関係を築くタイプの先生。
すっごく面白く、お兄ちゃん的なタイプ。人を笑顔にさせる親しみ深い先生。
一本の電話から、昔の事を沢山思い出しました。
良く考えたら、凄くバラエティーに富んだ人材が集まっていたんだな・・と。
その中で思ったのは、
「信仰の形」って人それぞれで、信仰には人それぞれの性格が反映されている。
この8名を思い出して、一番良く思い出すのは、学校も同じだった今回電話をくれた先生。
でも8名の誰が一番優れていて、誰が一番用いられていたか・・・とかないように思います。
自分の持つ性格やタイプが用いられていました。
表舞台に立つこの電話の先生は、チャラチャラしていましたが、その部分が若い中高生には心地よく、彼を通して子どもたちは賛美を好きになりました。賛美をしに教会に集まりました。
2番目を好む先生も同じで、中高生に影響を与え、その中で奉仕したい子どもたちが周りに集まって来ていました。
育ちの良さを感じさせる先生も、少し落ち着いた中高生たちが周りに集まり、聖書に対しての質問を受けていました。
自分を頼って来る者には親身となる先生は、悩みを持つ中高生が先生を頼って心の内の話をしていました。
お兄ちゃんタイプは、包括的な存在で先生がいる空間は、笑いがあり和やかな雰囲気に包まれていました。
今、思い出してみて、主は適材適所に用いられる・・
主は、この中で誰が一番という序列はなく、持っている性格を通して役割を与えて下さる。
反対から表現すれば、
信仰にその人の性格が表れている。
聖書を見てもそうですよね。
パウロのキリスト者を迫害していた恐ろしさを感じさせる激しい性格は、キリストの弟子となり、その性格が用いられ、迫害に屈することなく最期まで大胆に伝道する者として用いられました。
ペテロも直情的、情熱的で誠実でしたが、人間的な失敗が多く、おっちょこちょいでした。しかし、後世の私たちが聖書を読む時、ペテロを通してキリスト者として仕える身であっても失敗をするという姿に慰められる人が多いと思います。
12弟子のトマスも、思った事を隠せない正直者であり、見たものしか信じられない愚直な面がありました。復活されたイエスさまに対して「手に釘あとを見、指をその釘あとにさし入れ、手を脇にさし入れなければ信じない」と言った人物。
トマスに信仰がないのではなく、トマスのような存在も後世の者には「私のこのような信仰でも大丈夫なんだ」と感じさせます。
性格が、一生懸命な人は一生懸命、主にぶつかっていくのです。
性格が、おっちょこちょいな人は、失敗をしながら主に付いて行くのです。
性格が、疑り深い人は、確認しながら信仰を成長させるのです。
性格を通した信仰であり、その性格を通して主は用いられるのです。
人それぞれ、主との向き合い方が違って良いのです。
主はそれを受け入れて下さいますし、その性格を用いられる方なのです。
誰かを羨む必要もなく、自分のままでいいのです。
本当に主に感謝です。
今日は、自分の性格について、主はどのような方向でもちいられるのか考えたいと思います。
今日も、主と共に歩み、主に用いられる1日をお過ごしください!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」