求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
マタイ7:7-8
日本赤十字社の「不安が見えなくなるメガネ」という動画を見ました。
凄く考えさせられる動画だな・・と思いました。
「災害時に逃げ遅れないため」に作られた動画ですが、日々の私たち、信仰を持つ私たちにも重なるものを感じました。
心配なこと、嫌なことを見えなくする「自分は大丈夫レンズ」
何が起きてもみんなと一緒だから安心だと思わせて不安を見えなくする「みんなと一緒レンズ」
何となく周りのクリスチャンと自分を比べて、それほど信仰の差を感じないとか・・
教会の中でみたら、自分は一生懸命奉仕をしている方・・とか。
信仰書を読んでいる方。賛美が好きな方。デボーションを守っている方。
勝手に「自分は、まあまあ信仰だから大丈夫」と安心しているかもしれません。
私たちは教会で「主は私を愛して下さっている」「主は私たちに良いものを下さる」「主が守って下さる」というメッセージを沢山聞きました。
「主は、私より私の事をもっとよく知っていて下さる」「主が私にとって一番良いものを与えてくれるはず」「主は私の全てをご存知だ」「私が言わなくっても主は私の気持ちを分かって下さっている」
「主が私を愛して下さっている」という言葉が、一人歩きするような形で、「言わなくっても主は全てご存じ」と、主に必死に祈り求めていく信仰ではなく、一方的に主に任せた信仰になっていないでしょうか。
日本赤十字の動画でも、仕事でミスをした男の人に、眼鏡売りの男の人が眼鏡を差し出しながら「このメガネはあなたの心を守る特別なレンズで出来ている」と言いました。
私たちも自分の心を守る為に、特別なレンズで出来た眼鏡をかけているように思います。
突き詰めて考えると恐怖を感じるから、何となく「主が共に居て下さる」と、自分の心を安心の方に着地させるのです。
北朝鮮のミサイルも、速報を見る度にドキッとします。一瞬、頭に不安が過ぎります。しかしすぐに「でもまさか、戦争はないよね」と不安を打ち消そうとします。
怖すぎて考えないようにしているのです。「主が守って下さるハズだ・・」と思いながら。
日本は地震が多い国です。不安に思いながらも「主が・・・」と思っています。
ロシアとウクライナの戦争をニュースで見ながら心を痛め、「主よ・・・」で終わっています。
中国と台湾のニュースを見ながら「主よ。どうなるのでしょうか・・」で終わってしまいます。
まだ起きていない事を、心配し過ぎるのは良くない事です。
しかし、私は心のどこかで勝手に、「主がなんとかしてくれる」と思ってしまっている、自分勝手な信仰になっている事が多いかも・・と思いました。
もっと一つ一つを祈って行かないとダメだな・・と。
何となく「主が守って下さる」「主が私にとって必要なものは与えて下さる」「主は全てをご存じ」・・・
私は信仰を主に、丸投げしてるかも・・💦と感じました。
友達、夫婦、親子関係であっても、会話が必要です。感情のない事務的な会話ではなく、感情のキャッチボールが必要です。
夫が「妻は自分の事を愛している。言わなくっても分かる」と思って、何の会話もなくなったらどうでしょう?
感謝もなければ、要求する事もなく、、、でも「夫は私に、〇〇して欲しいと思ってるんだろうーなー」とは感じるのです。
夫婦の関係は、喜びに満ちたものにはならないと思います。
関係が破綻しなかったとしても、事務的な関係になり、単に横に存在する人となってしまいます。
喜びに満ちた関係にするには、互いのコミュニケーションが必要です。
主も同じだよな~~と思いました。
主は全てご存じなハズなのに・・「求めなさい。そうすれば与えられます」と言われています。
特に日本人は「言わなくても分かってくれる」という思考があります。
以前にも書きましたが、日本は「高コンテクスト文化」に当てはまるそうです。
空気を読む文化。言語化された言葉だけでなく、その表情や身振り手振り、相手の背景まで考慮して、人の話を聞くのです。(反対に、「低コンテクスト文化」もあります。ドイツなど。言葉に表された内容のみを受け取る)
「言わなくても分かる」「察して欲しい」という日本独特の「甘え」と言われる思考があるようです。(反対に言えば「察してあげれる」人の集まりでもあります。)
今日は、私が主に丸投げしてしまっている部分を考えたいと思います。
今日も、主と沢山コミュニケーションを取れる一日となりますように!!