自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。
箴言25:28
私たちには沢山の感情があります。
喜んだり、楽しんだり、悲しんだり、残念に思ったり、良かったり、情けなく思う事もあり、哀れに感じたり、悔しく思ったり・・・
イエスさまにも感情がありました。聖書を見ると、イエスさまも悲しまれたり、喜ばれたり、落胆する姿もあります。
イエスさまはいつもいつも、いつも喜びに満ちていた訳ではないのです。
ラザロが死んだのを知り、それに悲しむ姉のマリアや周りの人々を見て「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」と書かれています。
イエスさまも人間と同じ感情を持っておられたのです。
私たちクリスチャンにも感情があります。
いつもいつも平安で満たされ、喜べないのは当然なのです。
問題は、その感情をどの様に扱うか・・なのです。
ヤコブには12人の息子がいました。やがてその息子たちが12部族となっていくのです。
ヤコブの家族が、主の約束の地カナンに向かう道中、娘のディナが辱めを受けました。
それを聞いた兄、シメオンとレビは怒ります。辱めた相手は(シェケム)はディナと結婚を望みました。辱めた後、ディナを凄く愛したのです。
そして 父ハモルと子シェケムは、ヤコブ達に「ディナの結婚を許し、私たちは一つの民になりましょう」と提案するのです。
シメオンとレビは悪だくみを持って「私たちの民族の様に、あなたの民族の男子が全員割礼を受けたら結婚を許し、一つの民となりましょう」と持ち掛けたのです。
そして、シェケムは自分の民を説得し、男子全員が割礼を受け、3日経って一番苦しんでいる時を見計らい、シメオンとレビはシェケムの民の男子をすべて殺したのです。
そればかりではなく、幼子、女、家畜、町にあるすべてのものを奪い、町を略奪したのです。
シメオンとレビは、自分の妹が辱めを受け、感じた怒りのまま行動したのです。
時が流れ、ヤコブがこの世を去る時、子どもたちを呼び一人づつ祝福するのです。
この時に、シメオンとレビは祝福ではなく、のろわれ、イスラエルの中に散らされると予言したのです。
予言通り、2人には土地が与えられず、シメオンはユダに吸収され、レビは散らされたのです。
自分たちの怒りの感情をコントロールできず、感じるがまま行動してしまった結果です。
報復は世の中の法則なのです。
主の法則では、報復は罪なのです。
復讐と報いとは、わたしのもの(申命記32:35)とあります。
裁きは、私たちの領域ではなく、主の領域なのです。
なぜなら、私たちが罪人だからです。罪人である私たちには、罪を裁く権利がないのです。
怒りや悲しみ、落胆、様々な感情が出てくることは悪い事ではないのです。
生じる感情が問題であるより、生じた感情のコントロールが問題なのです。
「主よ、怒りが収まらないです。助けて下さい」と祈るべきなのです。
感情の奴隷になることを避けるべきです。
自分に生じる感情によって、私たちがその感情のまま行動するのではなく、主を呼ぶことにより主に近づくチャンスにもなるのです。
自分に生じた感情が何処から来るものなのか、感じた怒りの根本に自分の中に原因はないのか、主に問えるチャンスでもあるのです。
今日も、主に私の感情が独り歩きし、気が赴くまま歩んではいけないのです。
今日は、主によって私の心と感情を治めて頂くように祈ります。
今日も、主の中で平安な一日をお送りください!!