そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた、それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
創世記3:8-9
心に虚しさを感じていませんか?
私たち、主の似姿として創造されたはずなのに・・・どうして虚しさを感じるのでしょうか。
アダムとエバが、主から離れた生き方を始めた時、虚しさも始まったのです。
それが、今日の御言葉です。
アダムとエバは、善悪の知識の木の実を食べて、園を歩き回っていたのです。そして主が呼びかけられるのです「あなたは、どこにいるのか」・・・
これは、もちろん、主が本当にアダムとエバの居場所を聞いたわけではなく、
「あなたたちは、私から離れ、どこに立っているのか。」と問われたのです。
この時から、人間は生きている事に虚しさを感じたようです。
アダムとエバは、本当に驚いたのではないかと思います。今まで経験したことがない心情に陥り・・・
しかし、2人とも主に自分の罪を悔い改めるより先に、「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」「蛇が私を惑わしたのです・・」と責任転嫁をしてしまいました。
私も10代から教会に導かれるまで・・・スッゴク虚しさを感じて生きていました。
いつも1歳年上の人に出会うと「この人すごいな・・私より1年も長く生きてる・・。私はあと1年も生きて行けるか自信がない・・」と思っていました。
毎日毎日、酸素を探し求めながら、何とか呼吸を続け、命が途切れず繋がってるという状態でした。
教会に導かれ、求道中に、パスカルの言葉に出会いました。
「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」
これだ!!! と思いました。
私は、自分の空洞を埋めようと、必死になっていました。 生きがいを求めて生きようとしましたが、目標を達成しても、望むものを手に入れても、、心が満たされ喜びを感じるのは一瞬。
直ぐに、私は自分の足についてる足かせを誰かが引っ張り、引きずられるように暗闇の虚しさの中に閉じ込められている様に感じていました。
自分が今、生きているのか、死んでいるのかも、分からなくなっていました。
私たちの心の空洞は、
真の神(創造者)との交わりによってしか、埋めることのできない・・・
いつも、自分で外すことが出来ない、足かせが私には付いていて、、、
でも主を信じると告白してから、足かせが外れている事に気が付きました。暗闇に引きずり込まれることが無くなりました。
賛美をすれば、聖書を読めば、心が温かく感じるようになりました。
多くの人が、人生に虚しさを感じていると思います。
自分の人生を、ギュッと握りしめないで、握りしめた手を緩め、自分の人生を主に任せてみましょう。
クリスチャンでも、虚しさから解放されず苦しんでいる方も多いです。
虚しさからの解放を、切に主に求めて下さい。
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
主も、私たちが闇の中を歩む事を望まれていません。
私は自分の空洞が無くなり、気付いた事は、
私たちが持つ空洞、その空洞の形は、神の形をしているから、他のもので、その空洞を埋めようとしても、ピッタリと収まらず、神だけがピッタリ収まる事が出来るんだと思います。
そう感じてからは、主から離れたアダムとエバが虚しさを感じたのは、ここに立っていたら行けない、主のもとに帰らないと!!と感じさせ、主を求める為に与えられたものだったんだ思いました。
私たちが感じる、虚しさ、何の為に生きているのか、どこに向かって生きればよいのか、、、これらは、主が与えた思いだと思います。
主が、私たちを呼んでいるのです。
「あなたは今、どこにいるのか?」って。
「私の元に帰って来なさい。私があなたの空洞から解放させてあげよう」って。
今日は、心に空洞を感じる方の為に、祈ります!
今日、もう一度、主に自分の人生を明け渡し、主に従う人生を選択しましょう!
虚しさの中にある方は、それから解放されますように。
虚しさから解放された方は、今よりもっと喜びで満たされるように!
今日、主の御手が延ばされ、触れられる一日となりますように・・・