伝道はどの様な人が出来るのか【Ⅰサムエル16:7】

2022年

しかし主はサム得るに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

Ⅰサムエル16:7

今日は使徒の働き22章を読みました。

パウロは、主の導きによりエルサレムへ向かいました。パウロは、エルサレムに入れば、自分の身の危険が待ち構えていると分かっていました。案の定、エルサレムにおいて、ユダヤ人の民衆から「こんな男は殺してしまえ」と暴動が起きました。

神殿の中における出来事だったので、監視をしていたローマ兵たちがすぐにやって来て、パウロを捕えて兵営に連れて行こうとしました。パウロは、千人隊長にユダヤ人民衆に話させてほしいと願い出ました。

そしてパウロは会衆の前で「弁明を聞いて下さい」と言っています。

自分の生まれ(ユダヤ人でローマの市民権を持つ)、熱心なユダヤ教徒であった。律法を軽んじるキリスト教徒を嫌い、捕らえては牢屋にぶち込んでいた。だからキリスト教徒からは恐れられる存在だった。と自分の過去をさらけ出しました。

そしてイエスさまに「どうして私を迫害するのか」語りかけられ、光り輝きの為、目が見えなくなった。主は「ダマスコに行きなさい」と示されたと、会衆に話すのです。

12節に「律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良いアナニヤという人が(いた)」と書かれています。

結局は、パウロはこのアナニヤを通して目が見えるようになりました。

ここまで読んで、「ん?」と心に引っ掛かりを覚えました。

パウロは、キリスト教史上最も偉大な使徒の1人です。

キリスト教の布教に大きく貢献した伝道者です。

22章に出てくるパウロとアナニヤ。正反対な人物です。

アナニヤに対してはわざわざ「律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判が良い」と書かれています。

主は、どうしてアナニヤを選び、アナニヤに大きな仕事をさせなかったのでしょうか?

もちろん、アナニヤも主の働きをする者として、12弟子の1人として、主に選ばれた人でした。

でも普通に考えたら、誰からも好かれ、評判の良い人こそ、主を大胆に証しする人として、用いられそうな気がしませんか? 福音を聞く方も、アナニヤの様な人の言葉なら、耳を傾けるような気がしませんか?

パウロは誰もが知る、血も涙もない極悪人のような人でした。

もしも、私がパウロの過去を知っていて、パウロに伝道されたとしても・・・まず思うのは、怖くて関わりたくない・・・ 話を聞いたとしても、「あなた、あんなに非道な事をし続けてきた人が、神は愛??」って、「どの口が言うの?」って思いませんか?

私たちの目から見たら、パウロって伝道したらダメな人ではないでしょうか?

伝道はアナニヤのような善人のような人がするから、説得力があるのではないかと思いませんか?

・・・でも、主の考えは私達とは正反対なのです。

主は、私たちの目には一番コスパが悪そうな罪悪人を、一番大きく用いたのです。

パウロがいなかったらキリスト教は、ここまでの世界宗教にはなっていなかったかもしれない、と言われるほどの人物として、主はパウロを用いたのです。

主はどうして、アナニヤではなく、パウロを大きく用いられたのでしょうか?

パウロ程の誰もが認める極悪人、皆から恐れられた人物・・・それでも、主によって救われたのです!

パウロの様な罪深い人でも、主によって、生まれ変わる事が出来るのです!

「私には罪が多すぎで、救いにあずかるなんて・・・」と思わなくていいのです。

主には、救えない人はいないと言う証明です。

また、アナニヤのように善人でなくても、皆から好かれてなくても、正しくなくても、、、

どの様な人でも伝道でき、主は用いて下さるのです!

「自分には足らない事が多すぎる。」「私の様な者が伝道なんて、説得力ない」なんて考える必要がないという事です。

主は「誰が」主に仕えるか、が重要ではないようです。

主は、人の能力に頼られる方ではないのです。 

私たちの能力を借りないと、御業を起こす事が出来ないのではないのです。

主は私たちの心と思いを見られます。人間の評価ではないという事です。

使徒の働きの22章以降、最後の28節まで、「パウロの弁明」が続きます。パウロは伝道旅行を終え、パウロは殉教するのです。

殉教するまで、「弁明」を続けるのです。

このの「弁明」の意味は、ピリピ1:7を見ると、「福音を弁明する」と言いました。彼は、なぜこのように捕えられ、訴えられているのかを弁明するときに、福音のためであると答えたのです。

パウロが言う「弁明」は「保身」ではないです。自分が生き延びようと弁明したのではないのです。

福音を伝える為の「弁明」だったのです。

自分の身が確実に死に向かっていると知っていました。最後の最後まで「弁明」を続けたのです。

パウロは、主によって救われ、それを人々に伝えたい。何があっても、どうしても皆が救われて欲しいという思いが、揺るがないから最後までこの様な生き方を選んだのだと思います。

 

主は、本当に私たちの想像を超える方です。

聖書は本当に不思議な書物です。読む度に新しい発見があり、

ただただ、主の偉大さを感じるばかりです。

今日も、偉大な主の御言葉に触れ、満たされた一日をお過ごしください!

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