わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネ15:1-5
庭師さんの仕事に「剪定(せんてい)」と言うのがあります。
余分な枝や葉を切り落とすことです。
これは何故行うのでしょうか。
植物の不要な部分を、切り取り、養分を分散させないで集中させることによって生育を促し、美しい姿に仕上げる為です。
剪定された植物は、茂りすぎた葉っぱや枝、枯れ葉を取り除くことで、病気や害虫を予防します。
また、根よりも枝葉が生長しすぎた樹木は弱りやすいので、根と地上に出ている茎葉や枝のバランスを整える必要があるのです。剪定をすることで、根と地上部のバランスを合わせ、健やかな生長をサポートするのです。
今日の御言葉で、主がぶどうの木であり、私たちが「枝」だと言われています。
また主は枝に対して「刈り込み」を行うと書かれています。
この個所を読んだある方が、「私は刈り込みされる枝」だと言いました💦
これは、いらない人間は排除するという意味ではないです。
私という枝の中で、余分な部分を刈り込むという意味です。
どうして私たちに刈り込みを行うのでしょうか。
私たちに不要な部分、刈り込まれるものって何なのでしょうか?
私たちは、願いが沢山あります。私たちは自分の願いに対して沢山祈っています。
「〇〇が欲しいです。与えて下さい」「この件が上手く行きますように」「経済的祝福をお願いします」「素敵な伴侶を与えて下さい」・・・
私たちは自分が願う人生があります。こんなものを所有して生活したい。このような状態の生活をしたい・・・
沢山の願いを持っていますが、全てを手に入れる事は出来ないのです。
遊園地に行くと楽しそうな乗り物が沢山あります。全て乗ってみたいです。しかしそれは不可能です。乗る為の待機時間が必要です。閉園時間もあります。
人生も遊園地と同じで、したい事が沢山あります、食べたい物も沢山あります、経験したい事も沢山あります、手に入れたいものも沢山あります・・・ しかし、全てをすることは出来ないのです。
食べたい物を食べても、それを消化する時間が必要です。消化するのを待たないと次から次へと食べれないのです。また閉園時間があるように、人生にも決められた時間があるのです。
数ある多くのものから、本当に乗りたい乗り物を選び、時間をかけて並び、遊園地を楽しむのです。
植物は、私たちからは見えない土の中に根を張ります。土の深さも広さも(与えられた命の長さ)、私たちには分かりません。与えられた場所で一生懸命根をはるのです。
しかし自分の張った根以上の実を持とうとすると、その植物は育ちません、枯れてしまうのです。
自分の根に対して、沢山の枝や葉を茂らているので、主は枝を剪定されるのです。養分を集中させ良い実を実らせる為です。
剪定は「罰」ではないです。
私たちは、「選ぶ」必要があります。 枝だけでは実を結べないのと同じで、自分の力で全ての実をも実のらせないからです。
人生で何を選びますか?
私たちは、自分の人生は何に焦点をあてて生きるべきでしょうか?
私たちには、願いが沢山あります。「〇〇上手く行きますように」「・・お願いします」「・・お願いします」 沢山の願いを祈る事がダメなのではないです。
ただ、その様な祈りの前に、もっと切に欲しがるものがあるハズです。
もっと大切なものです。
主との関係です。私たちは主と言う木に繋がっていないと、成長できないし生きる事も出来ないのです。
主との深い交わりを持てるように、まず祈り、まず求めるべきです。
これが、何よりも大切な事なのです。
今日も、主に祈りましょう!!
主と話をするような関係になりたいと。主の御心を知れる者になりたいと。
今日も、祝福された一日をお過ごしください!